アメフラシは雨を降らさない

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アメフラシは雨を降らさない

 久々にまとまった雨が降った翌日、僕は雨宮さんと一緒に、海に行くことにした。アメフラシを見に行くためだ。  計画降雨の時に気象庁から派遣されるアメフラシを、僕は写真や動画でしか見たことがなかった。僕が「本物のアメフラシ、見たいよね」と言ったら、雨宮さんが「見に行く?」と言ったので、その誘いに乗ったのだ。  雨宮さんは、僕が誘いを断っても、一人で見に行くつもりだったらしい。アメフラシが好きなのかと訊くと、「好きでも嫌いでもない」と言った。 「好きでも嫌いでもないものを、わざわざ見に行くの?」 「海が好きだから、海を見に行くついでに」 「へえ、海が好きなんだ。なんで?」 「理由なんてないよ。好きなものは好き」  そんなわけで、僕たちは海へ向かって、連れだって国道を歩く。片道二時間、寂れた町を横切るように敷かれた国道の先に、アメフラシのいる海辺が広がっている。バスを使おうかとも思ったけれど、二時間に一本しかないバスに合わせて行動するのも馬鹿らしい。  僕たちは動きやすい服と履きなれた靴、飲み物とお菓子とを携えて、日曜日の午前、黙々と国道を歩いている。  僕が雨宮さんと知り合ったのは、つい最近のことだった。雨宮という女子が、みんなの話題にたびたび上っていることくらいは知っていたけれど、今年になって同じクラスになるまでは、僕は雨宮さんと話したこともなかった。  同じクラスになっても、同じ図書委員にならなければ、きっと永遠に話すことはなかっただろう。僕は「楽そうだから」という理由で図書委員を選んだのだけれど、雨宮さんは純粋に本が好きだから図書委員になったのだという。暗そうな子だな。それが、雨宮さんに対する第一印象だった。  だから、何もかもが意外だった。雨宮さんが、うつむいてぼそぼそと喋るような子じゃなくて、僕がたじろいでしまうくらい相手の目を見て話す子なんだとか。語尾に句点が付いて見えるくらい、はっきりと言葉を発音する子なんだとか。愛想笑いはしないけど、僕がちょっと面白いことを言ったり、嬉しかったりすると、「ひひひ」と変な声で笑う子なんだとか。 「さわれるかなあ、アメフラシ」  国道を歩きながら僕が言う。「さわれないと思う」と雨宮さんが答える。 「気象庁の管理生物だから、一般人がさわれないように、なってると思う」  こういう時、雨宮さんは「どうかなあ」とか、「さわれたらいいね」とかは言わない。でも、「さわりたいね」と僕が言うと、「私も、さわれるなら、さわりたい」と言う。雨宮さんはそういう子だ。  僕たちの真横を、スピードを出した乗用車が駆け抜けていった。人が歩くことを想定されていない道だから、歩道なんてなくて、白い線で狭い歩行者エリアが区切られているだけだ。僕たちは道の端に身を寄せて、何台かの乗用車が走り去っていくのを見送った。  昨日まで降っていた雨のせいで、アスファルトと未舗装の土との境界は、すっかり泥にまみれている。雨宮さんが「そこ、ぬかるんでるから、気を付けて」と僕に言った。僕は、先に僕が気が付きたかったなと思いながら、「うん」と返事をして水たまりをよけた。  それから僕たちは、ときどき休憩を挟みながら、山の中の国道を歩き続けた。森の中というのはじっとりと湿った空気に満ちていて、気温自体はそんなに高くないはずなのに、僕たちは汗びっしょりになった。 「あれ、原種じゃないね」  休憩中、どこからか飛んできた綺麗な蝶を眺めながら、雨宮さんが言った。羽が赤く光っていて、羽ばたくと赤い光が点滅しているように見える。あれはたぶん、国土交通省管理の蝶だろう。歩行者がいることを運転者に注意を促すために、僕たちに寄って来たのかもしれない。 「うん。原種は、あんなふうに光らないよ」  僕が雨宮さんに同意すると、雨宮さんは辺りを見回し始めた。 「原種が、いないかな」 「いないと思うよ。そもそも、原種は人に管理されていないんだから、餌を貰えなくて死んじゃうよ」 「そんなことないよ。原種は、人がいなくても生きていけるんだよ」  雨宮さんは、食物連鎖というものの話をしてくれた。人間から餌を貰うんじゃなくて、生きものが別の生きものを捕まえて食べて、生きていく仕組みなんだそうだ。 「そしたら、食べられる方の生きものは、絶滅するじゃん」 「食べられる方の生きものが減ったら、食べる方の生きものも減るんだよ。飢えるから。それで、食べる方の生きものが減ったら、食べられる方の生きものは増えていくでしょう。それの繰り返しだったんだって」 「ふうん」  理屈としては理解できる。でも、なんだか机上の空論のように思える。実際、あんまり上手くいってなかったから、わざわざ人間が「全生物保護管理法」なんて作ったんだろうし。  ちょうどこの間、社会科の授業でレポートを作って、みんなの前で発表したばかりだ。全生物保護管理法と、遺伝子アレンジの歴史について。  全生物保護管理法は、僕たちが生まれる百年以上前に制定された法律だ。当時、生きものの絶滅が世界的に問題になっていたらしく、これ以上生きものの種類が減らないように、人間は必死になって全生物の遺伝情報をかき集めた。そしてそれをデータ化して、遺伝情報さえあればいつでも、どんな生きものでも再生産が可能な工場を作った。  その過程で、遺伝子操作の技術が飛躍的に進歩した。遺伝子アレンジによって、どんな生きものでも思うままにデザインすることができるようになった。  あらゆる生きものたちが、遺伝子アレンジを受けた。危険性をなくしたり、有用度を高めたりするアレンジもあれば、単に楽しみのために毛や羽の色をアレンジされた生きものもいる。  そういった生きものたちの原種は、ひっそりと姿を消していった。誰もそれを気にとめなかった。全ての生きものの遺伝情報は、既にストックしてあるのだから、原種が必要になれば、工場で再生産すればいい。  でも、何の役にも立たない原種なんて、誰も必要としないだろうけど。  休憩を終えて、僕たちはまた歩き始める。ずっとまっすぐだった国道は、この先で大きなカーブを描く。その先が海だ。  森が終わって、眼下に鈍色の水面を見たとき、僕たちは「おお」と声を上げた。湾いっぱいに、アメフラシは大きく膨らむようにして浮かんでいた。島のようでもあるけれど、特徴的な二本のツノが突き出しているので、あれがアメフラシだと遠くからでも分かる。  アメフラシの頭上には、昨日吐き出したのであろう赤紫色の雲が、まだ少し残っていた。そのせいで、海上は今日も小雨が降っているようだ。 「すごい、大きい」  雨宮さんが、溜め息をつきながら言った。それから、「大きいことは分かっていたけど、実際に本物を見たら、本当に大きいんだって実感した」と付け加えた。  アメフラシは、特殊な刺激によって赤紫色の雲を吐き、それが上空で難しい化学反応を起こして、結果として地上に雨を降らせる。この遺伝子アレンジは、教科書の「人類にとって特に有用なアレンジ生物の一例」というコラムにも載っていた。動画で見たものと全く同じ、奇妙に色づいた雨雲とその発生源を、僕はぽかんと口をあけたまま眺めた。 「ねえ、もうちょっと近づいてみようよ」  雨宮さんが僕の手を取って、引っ張って歩き出した。僕はどきどきしながら、雨宮さんについて、国道脇に設置された階段を下りていく。アメフラシは微動だにしない。少しは動いているのかもしれないけれど、あんまり大きすぎて分からない。  磯の手前まで出ると、アメフラシはちょっとした小山のようにそびえたって見えた。僕たちのそばに小型ドローンが飛んできて、身分証明書の提示を求められたので、僕たちはドローンのカメラに学生証をかざした。「僕たち、アメフラシを見に来ました」と言うと、ドローンはいくつかのランプを点滅させて考え込んだあと、『許可します。これ以上の接近は禁止です』と言って、どこかに飛び去ってしまった。  ドローンの許可も得たので、僕たちは磯を歩いて、比較的座り心地のよさそうな岩の上に、持って来ていた飲み物とお菓子を広げた。僕はサイダーとポテトチップス、雨宮さんは麦茶とチョコレートクッキーだ。 「これも持って来たんだけど、食べる?」  雨宮さんが差し出したのは、なんとキュウリの一本漬けだった。ちゃんと保冷剤と一緒に持って来たのか、キュウリは気持ちよく冷えている。僕は、雨宮さんにお礼を言って、ありがたくいただくことにした。  キュウリをかじりながら、僕たちはひたすらアメフラシを眺めた。アメフラシは時々ゆらりと動くけれど、その場を離れようとはせずに、ただ波に体を洗われている。  アメフラシは、何を考えて生きているんだろう。昨日はこのアメフラシのおかげで、関東全域に久々の雨が降った。おかげで乾いていた土も空気も、程よく湿ってくれた。たくさんの人たちの役に立って、アメフラシは誇らしく思っているだろうか。 「あ、見て」  僕が考え込んでいると、雨宮さんが潮だまりのあたりを指差した。 「アメフラシだ」  そこにいたのは、小さな軟体動物だった。遺伝子アレンジを受けていない原種。雨を降らさない方のアメフラシだ。 「すごいね、野生のアメフラシだよね。雨宮さん、よく見付けたね」  僕が褒めると、雨宮さんは「ひひひ」と笑う。嬉しいらしい。  僕たちはしゃがみこんで、小さなアメフラシを観察する。ぬるい海水の中で、アメフラシはツノをゆらゆら動かしながら、ゆっくりと移動している。僕たちは無言でそれを見つめた。波の音と、ときどき頭上を旋回するドローンのプロペラの音しか聞こえない。雨宮さんは息を潜めていたし、僕もそうしていた。まるでそうしていないと、目の前の小さなアメフラシが、驚いてどこかへ消えてしまうとでも思っているみたいに。 「このアメフラシって、何を考えて生きているんだろう」  雨宮さんが言った。僕も同じことを考えていたけれど、口にはできなかった。「何も考えてないんじゃない」と僕が言うと、「じゃあ、もし何か考えているとしたら、何を考えていると思う?」と雨宮さんは更に続ける。 「うーん、水が気持ちいいなあ、とか。お腹すいたなあ、とか」  アメフラシが何を食べるのか、僕はそれを知らなかった。きっと雨宮さんも知らないだろう。雨宮さんが何も言わなかったので、僕は「雨宮さんは、このアメフラシが、何を考えていると思う?」と訊き返す。もし、何か考えているとしたら。 「このアメフラシは……」  雨宮さんは顔を上げて、海にそびえている、雨を降らせるアメフラシを見た。 「自分は何のために生きているんだろうって、考えていると思う」  鼻筋をずり落ちた眼鏡を、雨宮さんが指で押し上げる。だけど眼鏡は、上げたそばからずるりと滑り落ちてくる。  雨宮さんがつけているような眼鏡を、僕たちの誰もつけていない。僕たちはみんな視力が良いからだ。僕たちのクラスで、視力が悪いのは雨宮さんだけだ。多分、学校全体で考えても、眼鏡をしているのは雨宮さん一人きりだ。  僕たちの遺伝子からは、あらゆる障害が除外されている。視力だって良いし、病気になることもない。さらに言えば、僕たちは一定以上の学力、運動能力、芸術的センス、協調性の高さ、ストレス耐性の高さを持つことが保証されている。そして必ず、何か人の役に立つような才能を持って生まれてくる。  でも、雨宮さんはそうじゃない。  百年前は、僕たちのような子供の方が珍しかったらしい。子供に遺伝子アレンジを加えることは邪悪で、道理に背く行為だと批難されたそうだ。  でも、僕たちのような子供がどんどん増えて、遺伝子アレンジを加えることが当たり前になると、正義と悪はくるりと裏返った。遺伝子アレンジを加えないことは、生まれてくる子供に対する虐待に等しいと言われ始めた。  あらかじめ病気になる遺伝子を取り除くことが、優秀な子供にすることが、そんなに悪いことか? 病気になると分かっていて、落ちこぼれになると知っていて放置する方が、よほどひどいじゃないか。  遺伝子アレンジは悪いことではない。生まれてくる子供が、健康で優秀な子供であるように。特別な才能を持って生まれて、人の役に立って、必要とされるような子供になるように。親から子へ与えられる、最初の、そして最大の愛情こそが、遺伝子アレンジなのだ。そんなふうに、世の中の意見は変化していった。  でも、雨宮さんの親は、それをやらなかった。雨宮さんは視力が悪くて、勉強はそこそこできるけど運動は全然できなくて、協調性があんまりなくて、歌や絵も上手くなくて、特に才能といった才能も見られない子供になった。雨宮さんの親が、遺伝子アレンジを加えなかったから。  一度、先生が深刻な顔をして、雨宮さんと話しているのを見たことがある。もし家でつらい思いをしているなら、先生に助けを求めなさいと、先生は涙ぐんで雨宮さんを抱き締めていた。  先生は本気で心配していたんだと思う。だって、遺伝子アレンジを受けていない雨宮さんは、両親から愛されていないに決まっているんだから。  雨宮さんと僕が図書委員になって、彼女が僕の冗談に笑ってくれるようになったころ、雨宮さんはこっそり教えてくれた。 「私のお父さんもお母さんも、私のことすごく好きなんだよ。みんな、信じてくれないけど」  僕はわざとどうでもいいようなふりをして「ふーん」と言った。それから、「僕は信じるけど?」と、付け加えた。雨宮さんは「ひひひ」と笑っていた。  雨宮さんはいつだって、周りが何と言おうと雨宮さんだった。僕はそういう雨宮さんしか知らなかったから、今、彼女がアメフラシを見上げたまま耐えるような顔をしていることに驚いてしまって、何も言えずにいる。  雨を降らさないアメフラシは、何のために生きているんだろう。目の前に、雨を降らせるアメフラシがいる。特別な才能を持っていて、人の役に立って、誰かに必要とされているアメフラシがいるのに、何の役にも立たない、潮だまりでうごめいているだけのアメフラシは、一体どうして生まれてきて、何を考えて、何のために生きているんだろう。  きっと彼女は、真剣に考えている。真剣に、そして切実に、アメフラシの生きている意味を。  僕が答えられずにいると、雨宮さんは雨を降らせるアメフラシから目を逸らして、足元の、潮だまりのアメフラシに視線を落とした。細い指がアメフラシをつつく。驚いたアメフラシは、赤紫色の液体を出して威嚇する。  色のついた潮だまりに指をひたして、それから雨宮さんは唐突に、赤紫色に染まった指先を空へ向けて、ばんざいをした。そして、 「雨よ、降れー!」  いつもの雨宮さんからは考えられないくらい大きな声で、そう叫んだ。波の音が、あっけにとられた僕の沈黙を埋めていく。雨宮さんは、やけに落ち着いた大人びた声で、「降らないね」と言った。 「降らないよね。そんな力、ないもんね。原種だから」  両手を上げたまま、海を見ている雨宮さんの、その肩が震えているのが分かった。  雨が降ればいいのに、と僕は思う。偶然でも良いから、今、雨が降ればいいのに。どうしてそう思うのかは分からない。ただ、雨が降った方が、それが雨宮さんにとっては一番優しい結末になるような気がした。  でも、雨は降らない。アメフラシは雨を降らさないから。 「雨よ……降れー!」  僕も、雨宮さんみたいに両手を上げて、叫んでみる。空は曇っているけれど、雨粒はちっとも落ちてこない。「降るわけないよ」と、雨宮さんが言う。  当たり前だ。何の才能もない、役に立たない、原種のアメフラシは雨を降らさない。でも。 「でも!」  そのままの勢いで、僕は叫んだ。 「それでも、好きだー!」  雨宮さんが振り返った。頬に透明なすじを流したまま、眼鏡の奥で目をまん丸にして、僕を見ている。 「なんで?」  雨宮さんが言う。なんでかな。僕は考える。なんでだろう。 「分からない。でも、好きに理由なんてないって、雨宮さんが言ってたんじゃん」  そうだっけ、と呟く雨宮さんの耳が、ちょっとだけ赤く染まった。そうだよ。好きに理由なんてないよ。好きなものは好きなんだって、雨宮さんが言ったんだ。 「あのさ、二人で雨ごいしようよ」  僕は雨宮さんの隣に並んで、ばんざいをして「雨よ降れー!」と叫んだ。雨宮さんも、同じように「雨よ降れー!」と叫ぶ。雨ごいをする僕たちを前にして、山のように大きなアメフラシは、ぴくりとも動かない。そしてやっぱり、雨は降らない。  僕たちは飽きるまで、空に向かって訴えかけた。どんよりと重い黒い空から、奇跡の雨粒がぽたりと落ちてくることを、少しも期待しないままに。 「あーあ、雨ごい、全然効かないね」  しばらく無意味な雨ごいをして、さすがに疲れた僕たちは、諦めて両手を下ろした。雨宮さんは、服が濡れるのも構わずに、潮だまりの中に座り込んだ。そして、持ってきていた麦茶をぐびぐびと飲んだ。  潮だまりのアメフラシは、いつの間にかどこかに行ってしまった。多分、理由もなく生きて、そして理由もなく死んでいくんだろう。きっと元々そういうもので、それで充分なんだろう。 「うん。効かなかったね、雨ごい」  僕も、すっかり炭酸の抜けたサイダーを飲み干した。 「帰ろうか」  僕が言うと、雨宮さんは素直にうなずいた。帰りはちょうどバスが来る時間だったので、僕たちは海辺のバス停からバスに乗って、来た道を逆に辿る。  また、海に来よう。バスの窓からちらりと見えた、鈍色の波を目に焼き付けながら、僕は思う。雨宮さんが、海が好きって言っていたから。ここの海には、雨を降らせないアメフラシが、生きているから。  バスの揺れが心地いい。すっかり疲れていた僕は、すぐに舟を漕ぎ始める。うとうとしていると、隣に座った雨宮さんが「あのさあ」と小さな声で言った。 「好きだって言ってたの、あれ、アメフラシのこと?」  半分眠っていたはずの僕の意識は、どきんと跳ねた心臓の音に覚醒して、その勢いで、僕はバスの窓ガラスにおでこをぶつけた。心臓はどきどきするし、ぶつけたおでこはずきずきする。 「アメフラシのことだけど?」  声を裏返らせながらそう言うと、雨宮さんは「そっかあ」と言った。そして、僕の方を見ずに、「ひひひ」と笑った。 <終>
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