ドアマット・ゲーム 〜誰か私と不倫しませんか〜

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 博を屈服させるには、一体どうすればいいのだろうか?  決して簡単なことではなかったが、答えは悩むこともなくすぐに出た。政治家としての信頼を失墜させるのが、一番の復讐になるはずなのだ。  肩書きがなくなってしまえば、博は世間知らずのお坊ちゃまなのだ。自分の新幹線の切符さえ買ったことがない男だ。おそらく、靴下がどこにあるのかさえ知らないだろう。  裸一貫で世間に放り出されたら、きっと生きて行くことなんてできまい。そうなると唯一の肉親である陶子に、泣きついて来るはずだ。そうするしか方法がないからだ。  そうなったら言ってやろう。頭を垂れるあの男を見下ろしながら。 (あなたのような役立たずには、用はないわ!)と。  そのためには、この佐々岡家がいかに異常であるのかを表沙汰にしてやるだけでいい。  幸運なことに、証拠は山のようにある。  陶子にとって都合の良い証言してくれる人物たちに、手当たり次第に連絡を取った。  もちろん一筋縄ではいかなかった。だから交渉は困難を極めたのだった。中には陶子がまた何かを企んでいるのではと疑われることも少なくなかった。  当然だろう。  陶子が行ってきたことを考えれば、本来なら顔も見たくはなかったはずだ。もしも逆の立場なら、同じ空間で同じ空気を吸うのも拒否しただろう。  だが、陶子が流産したこと。父親には男をあてがわれ、子供を産むための道具にされていることなどを包み隠さずに話すと、少なくとも全員が聞く耳くらいは持ってくれたのだった。  やはり全員か陶子の不幸を望んでいるであろう面々だけのことはある。  相当参っているのだと伝えると、全員が一様に「さまあみろ」と言わんばかりの反応を見せたのだった。 「話はわかったけど、あなたに協力すると、こっちにはなんのメリットがあるわけ?」  山崎真由美は不貞腐れた表情でそう言った。  真由美だけではない、ここに集まった面々はみな、顔に「お前のことが気に食わない」と書いているような表情をしているのだった。  場所は真由美の画廊を使わせてもらっている。  鳴宮が真由美から離れたため、画廊には置く作品がなくなっため、今は休業状態だ。そのため、真由美には申し訳ないが、秘密の話をするのにはちょうど良かったのだった。  建物の奥にある例の喫茶店だ。アルバイトの店員はいない。 「この画廊の再建に、協力させてもらうわ」 「そう言われてもねえ。展示する絵を描く画家がいないんじゃあねぇ」  真由美の視線は、すぐに向かいの席に座る男性に向けられる。 「ていうか、あっさりと乗り換えておいて、よくわたしの前に顔を出せたわね」  真由美が言った相手は、もちろん陶子ではない。  整った顔を憮然とさせたまま、足を組んで頬杖をついている鳴宮涼介にだった。  チラリと真由美の方に視線を走らせたかと思うと、すぐにそっぽを向いてしまう。 「別にアンタに会いに来たわけじゃないよ。この女に復讐できるらしいから来ただけだ」  陶子の方には一瞥もしない。その気持ちはわからなくもない。噂によると、美月とは別れてしまったらしい。  陶子としてはそうなるとわかってやったことではあるが、今となっては若いカップルをいたずらにイジメしまったことに、わずかばかりの後悔を感じるのだった。 「もちろん涼介──鳴宮くんにも、十分なことをさせてもらうわ。確か海外に留学したかったっていたわよね? その援助を約束する」 「ちょっと待ちなさいよ!」  割って入って来たのは梶百合子だった。 「その前に、騙してないっていう誓約書を書いてもらいたいんだけど」  靖幸との件では、警察には通報しない代わりに、陶子の自宅で知ったことは、決して他言しないようにと誓約書を書かせた。そのことを根に持っていて、仕返しをしているつもりなのだろう。  陶子とて、口約束だけでこんなことを頼むほど図々しくはない。 「もちろん、みんなが納得するような書面にするつもりよ。それに父親の失脚に成功したら、私が自由にできるお金はすべてあなたたちに支払うわ」  それで構わない? と陶子は聞いた。  その相手は梶百合子ではなく、ここまでずっと無言のままの女性だ。  それは高梨京子だった。 「わたしは別に……奥さまがどうしてもって言うので来ただけですから……」  京子は顔を上げて陶子を見た。その表情は、今にも泣き出しそうだった。  陶子はおかしなことに巻き込んでしまったな、とここに来て後悔の念が胸の中に襲って来た。  京子はこの中で唯一、幼い子供がいる身だ。自分の生活を考えたら、こんなことをしている暇はなかったのだろう。 「もしも迷惑だったら、京子ちゃんは──」 「奥さまはどうなるんですか?」 「え? 私?」 「そうです。大旦那さまを失脚させたら、奥さまはお一人になってしまうのでは?」  どうやら京子は自分のことではなく、陶子のことを心配してくれていたらしい。 (本当に気の回る子なのね、京子ちゃんって……こんな時にはまて私の心配だなんて……) 「私は大丈夫!」  陶子はどこか吹っ切れていた。むしろ清々しいほどだった。から元気に見えているだろうなと思いつつ、陶子は自分の胸を叩いたのだった。 「今の私が望むものは、父が不幸になることだから」 「ちょっと待ちなさいよ!」  口を挟んできたのは真由美だった。 「もう一人は、陶子を恨んでる人間がいるんじゃないの?」  すぐに誰のことを言ってるのかがわかった。 「入間くんに電話したけど、繋がらなかったわ」 「相当恨まれてるのね」  真由美は愉快だと言わんばかりに頬を持ち上げた。  陶子は全員の顔を見回し、うやうやしく頭を下げる。  だが、それでは納得しなかったらしい。  テーブルの下で、陶子は誰かに足を蹴られた。  方向からして、百合子だったようだ。 「それが人にモノを頼む態度かね」  言わんとしていることが全員に伝わったのだろう。真由美は「それいいね」と笑い、鳴宮は興味なさげだ。京子が怒りをあらわにして口を開きかけたが、すかさず陶子は手で手で制した。  椅子から降りてその場に膝をつくと、深々と頭を下げ、おでこを床に擦り付けた。 「みなさん、どうか私を助けてください。よろしくお願いします」   陶子が計画したものは至って単純なものだ。  これまでに集まった面々にしたことを公表するだけだ。  幸い、今はマスコミなどを使わなくても世間に公表する手段は事欠かなかった。  それぞれにSNSのアカウントを作ってもらい、そこに載せればいいだけだ。  しかも運良く選挙が近いということも、陶子にとっては追い風だった、  ちょっとしたスキャダルだったしても、必要以上に取り上げられることになるだろう。特に父親の博と同じ選挙区の候補者たちからすれば、喉から手が出るほど欲しいもののはずだった。 (さあ、みんな。これまでの私への恨みつらみを、遠慮せずに投稿してちょうだいよ)  ところが、待てど暮らせどインターネットにはそれらしき記事が載ることはなかった。  答えは単純だった。  真由美の主導で、全員が陶子を裏切ったからだ。  父親に交渉して、このことを黙ってる代わりに十分な資金を提供してもらうことになったらしい。  真由美は画廊の経営資金。百合子はこれまでの慰謝料。鳴宮涼介は海外への留学費。そして京子は── 「平穏無事な生活ができれば、それでいいんだそうだ」  自宅にやって来てことの顛末を話す博の口調には、なんの感情もなかった。  ただの業務連絡をする時の方が、まだ喜怒哀楽が込められていただろう。  他人が聞いたら、とても実の娘と会話をしているようには思えなかったはずだ。いや、会話ではない。  陶子は一言も発しなかったからだ。 「お前は黙って佐々岡家の跡取りを産めばいいんだ。わかったな。どうせお前にできることなど、それ以外にないんだから」 『馬鹿な娘さんを待って、佐々岡先生もご苦労が尽きませんね』  博の事務所にやって来た真由美がそう言っていたと、居合わせた靖幸から聞かされた。  さらに靖幸は続ける。  真由美の言葉を真似ているのか、それとも彼の感情が加わっていなのか、もしかしたらその両方だったのかもしれない。  言葉の端々には、陶子を嘲笑するような色がうかがえた。 「『世間知らずのお嬢さまは、これだから困るのよ』だってさ」  陶子の脇を通り抜ける時、靖幸は笑っていた。おそらくこれは彼の感情から出たものなのだろう。  今にも高笑いをするのではないかというくらいに、楽しげな口調だったのだ。 「これ以上、僕たちの足を引っ張らないでくれよ」  自宅で1人になると、陶子はただ呆然としていた。  ほぼ何もする気もなく、日がな一日を過ごすこと1ヶ月、陶子のスマートフォンが鳴った。  それは知らない番号からだった。だから無視していた。変な営業の電話でも間違いでも、今は誰とも話したくはなかっまからだ。  ところがその番号からは、毎日のようにかかってきた。さすがに不審に思った陶子は、しかたがなく出てみることにしたのだった。 「もしもし?」 『やっと出てくれた!』  ずいぶん懐かしい声のように思った。  入間健吾からだった。
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