ドアマット・ゲーム 〜誰か私と不倫しませんか〜

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 陶子が自宅に戻って来てから1週間が経過したころ、不意にインターホンが鳴らされた。  インターホンが鳴るのはいつも突然だ。例外があるとすれば、「今家の前にいるから」と、知人から前もって連絡があった場合だけか。  だが、陶子の場合、近所付き合いもなければ、気軽に自宅を行き来するような友人もいない。  というより、あえて人を遠ざけている、といった方が正しかった。  それは父親が政治家だからということが大きく関係している。  博からは、近づいて来る者は基本的に何かしらの下心や、見返りを期待してと考えて間違いない──そう子供のころから教えて込まれていたからだ。そのため自然と人を遠ざけてしまう癖がついていたのだった。 (靖幸さんかしら?)  時計を見上げると、午後1時を少し回ったところだった。 (それにしてはずいぶん早いわね)  靖幸がこんな時間に帰って来るなんて、陶子の事故があってからは考えれられなかったのだった。  リビングのソファでファッション雑誌を読んでいた陶子は、不審げに首を傾げた。  あの日以降も、靖幸はきちんと自宅には戻って来ている。だからといって、夫婦の絆が深まったわけではない。  二人の間に会話はなく──元からあまりなかったが、靖幸は再び露骨に陶子を見下すようになったのだった。  靖幸にとっての最大のアキレス腱は、子供が できない体であるという点だ。  ところが博はそのことを知った上で靖幸を寵愛をしていることになる。つまり靖幸にとって、もう恐れるものは何もなく、それどころかむしろ陶子は無用の長物でしかなかったわけだ。  だから様子を見るために、靖幸が早く帰って来るなんてことはあり得ないことだった。 (まさか、お父さま?)  だとしたらこのまま居留守を使おうかとも思ったが、それは靖幸がこんな時間に帰って来る こと以上にあり得ないことだと、陶子は苦笑いを浮かべた。  実はもうすぐ選挙があるのだ。  だから地元へのあいさつ回りで、娘どころではないはずだった。それに靖幸にも、選挙か終わるまでは大人しくしているように言っているのだろう。だから不承不承ではあったとしても、陶子がいるこの自宅に帰って来るというわけだ。  だとしても、この時間に帰って来ることはあり得ない。  もう一度インターホンが鳴らされたタイミングで、陶子はリビングのドアに向かって声を張る。 「京子ちゃん、誰か来たみたい。ちょっと出てくれる──」  そこまで言って、京子はすでに解雇されたのだったと思い出した。  彼女は身重の陶子を外に連れ出したことの責任を取らされたのだった。  そのことを聞かされても、陶子は特に異論を唱えることはなかった。  もともと京子のことは、単なるお手伝いと主との関係上でも、以下でもない。使用人が入れ替わるのは、よくあることだし、これまでも幾度となくあったことだ。  何より陶子が美容院に行きたいと言ったのだと話したところで、博が納得しなかっただろうから、事態は何も変わらなかっただろう。 (一体誰だって言うのよ!)  新しいお手伝いが来るまでは、このような雑用はすべて陶子自身がやらなければならないわけだ。しかたがなく立ち上がると、カメラで確認する。  すると靖幸でも博でまなく、見たこともない男が、マンションのエントランスにいたのだった。  青い野球帽のようなものかぶり、同じ色のツナギを着ている。手には何やら道具箱のようなものを持っていた。 (マンションの作業員の人かしら?)  浅黒く、鼻筋が通っていて、この手の顔は一般的に「整った顔立ち」と言うのだろう。  男にしてやや長めの髪の毛で、帽子の裾から黒い髪の毛が見える。 「どなた?」  問いかけると、すぐに返答が返ってくる。 『水道業者の者です。そちらのお宅で水漏れがあると聞いたので、やって参りました』  陶子は不審げに眉根を寄せた。そんな連絡をした覚えがないからだ。第一、水漏れなどしていない。 「部屋を間違ってるんじゃないかしら?」 『いえ、佐々岡陶子さんのお宅だとうかがっています』 「でも──」  と、言いかけたところで、それを遮るように男は『ちょっと待っていただけますか』と、スマートフォンでどこかに連絡をしているのだった。  エントランスの呼び出し口から少し離れたところに移動してしまったので、誰にどんな話をしているのかはわからなかった。  2、3分は待たされただろうか。  すると陶子のスマートフォンにメールが来た。  父親の博からだった。  その文面を見て、陶子は不信感を募らせるのだった。 『水道の調子が悪いはずだ。その男を家に入れてやりなさい』  たったこれだけの文章が送られて来たのだった。  インターホンの画面を見ると、男と目が合った。  もちろん向こうからは陶子を見ることはできない。それでも男は、自分が陶子に見られているのは十分に意識しているのだろう。  真っ白な歯を見せたかと思うと、ウインクしたのだった。 (なんなの? この男は……)  薄気味悪さを感じたが、博といとも容易く連絡を取れている。ということは、ここで追い返すと、そのことは瞬く間に博の耳に入るのだろう。  そうなれば、とても厄介なことになるのは想像できた。  しかたなく陶子はドアを開けてやる。  しばらくすると、今度は部屋のインターホンが鳴らされた。  ドアチェーンをしたままドアを開ける。15センチほどの隙間から覗くと、向こうも同じように覗き込んで来た。 「どうも、初めまして」  男は帽子のツバに手をやって軽く会釈した。その仕草からすると、この男はきっとこういうことに手慣れているのだろうな、と思った。  それと同時に、一瞬にして陶子は、この男は水道業者の人間なんかではないなとわかった。肉体労働をしている者の雰囲気はない。強いて言うなら、女を相手に商売している男に──だと確信した。 「なんの用なの?」  男は廊下の左右を素早く確認する。 「とりあえず中に入れてもらえませんか?」 「何しに来たのか言いなさいよ。でないと、警察を呼ぶわよ」  困ったな、といった感じで男はこめかみのあたりを人差し指でかいた。 「ええっとですね……」  どう説明すべきか悩んでいたのだろう。やがて決心したように顔を近づけて来ると、隙間から顔を覗かせ囁くように言ったのだった。 「お父上から、あなたを妊娠させたら金をやると言われて来ました」  博らしいと言えばその通りだったが、同時に── (実の娘に対してそこまでやるのか……)  そんな思いが頭の中を駆け巡っていた。  そして陶子の中で、何かが壊れた気がした。
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