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(だからお母さんは、父の元から逃げたんだな……)
男が帰った後、陶子は一人、シャワーを浴びながらそんなことを考えていた。
これまで父親の博からは、散々聞かされて来たことがある。
母は淫乱で娼婦で売女で、どうしようもない男狂いなのだ、と。
よくも自分の妻を、そして陶子の母親のことを、罵倒の限りを尽くして言えるものだと思う。その反面、母はそれだけのことをしたのだという気持ちもないわけではなかった。
現に頼子は夫も子供もありながら、妻子ある相手と駆け落ちを企てている。結果的に1週間の短い逃避行とも呼べないような、単なる世間知らずのお嬢さまのご乱心で終わってしまったわけだ。だからといって、やったことを考えれば、博が罵倒したくなるのもわからないではない。
ただ、十年以上経った今なら、母親の頼子がどうして世間から「馬鹿なことを」と、言われてしまうような真似をしたのか、わかるような気がしていた。
あの男と一緒にいたら、殺される──きっと頼子はそう思ったに違いない。
物理的に命を奪わるということだけが、殺人ではない。
陶子がそれを初めて知ったのは、高校の時だった。
心の一部を奪われることでも、人という生き物は死んでしまうのだ。と言うよりも、生きる意味を失ってしまう、といった方が近かったのかもしれない。
例のドアマット・ゲームのターゲットになった同級生たちのほとんどは、精神的に病んでしまっていた。
陶子は一度、学校に来なくなった同級生を、たまたま街中で見たことがあった。
その子は両親やクリニックなどのスタッフに両脇を抱えられるようにして、千鳥足で歩いていた。
目はどこを見ているのか、焦点が合ってなかったように思う。
まるで駆け落ちしてすぐに、自宅に連れ戻された母のようだった。
(これが因果応報ってヤツか……)
母親の自殺があたことで、陶子自身もまた精神的に荒れていたとはいえ、同級生に行った所業に関しては、今さら何の言い訳もできないことだった。
そして、今自分が父親に殺されかかっているのは、過去の報いというわけだ。
(私はこのまま、現状を甘んじて受け入れるしかないの……)
絶望を感じていたら、ふと頭の中に昔の記憶が蘇った。
多くの同級生が陶子たちに屈して精神を病む中で、一人だけドアマット・ゲームのターゲットになった後も、普通に学校に来ていた者がいたのだった。
それが入間健吾だ。
(彼だけは、絶対にへこたれなかったものね……)
陶子は慌てて頭を振る。
(どうして今さら、あんな男のことなんか……彼は真由美と組んで私のことを貶めようとしたんだから)
バスルームの壁に両手をつき、頭からシャワーを浴び続けた。それでも体中にへばり付いているこれまでにやって来た陶子の悪事は洗い流されることはなさそうだった。
ただ、入間を思い出したことで、不思議と力がみなぎっていた。
(娘が黙ってあんたに従うだけだと思うなよ……)
人は得体の知れないものに出会うと、「不安」に支配され、その結果、思考がままならなくことがよくある。
暗闇の中で物音がすると、言い知れぬ不安と恐怖に苛まれ、パニックを起こしてしまう人がいるのはきっとそのせいなのだろう。
その反面、敵の正体が明確になった途端、意外となんでもないことに気がつき、同時に肝が据わるものだ。
まさに今の陶子がその状態だった。
(どうやれば、父を貶めることができるんだろう)
自分の「安定」を脅かすのは、誰でもなく父親の博が元凶だったのだとわかった以上、なんとしてでも取り除かねばならない。
陶子の頭の中には、そのことに支配されていた。
ただ一方では、今の状況を俯瞰で見られるだけの冷静さも持ち合わせているつもりだった。
間違いなく、厳しい戦いになるのは間違いない。
何せ相手は多方面に顔が効き、場合によっては都合の悪い事実は揉み消すことだってできるからだ。
(では、私の武器はなんだ?)
自問して虚しくなる。
(私には何もない……)
陶子はその場に両膝をついて座り込む。
佐々岡家の娘だったからこそ、これまでやってこれたのだと思い知り、愕然とした。
(私って、なんのために生きてるの……)
そこまで考えてハッとする。
シャワーを止めて立ち上がると、顔にかかった前髪を払いのけた。
(あるじゃない! 私には最大の武器が!)
体の底から力がみなぎってくるようだった。
(父にとっての爆弾は誰でもない、この私だ!)
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