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からすのカァ子
林の奥の細い道を辿っていくと、ぽつんと一軒の家があります。
林の奥まったところにある家ですから、普段、人の往来は殆どありません。
この家の住人は清子さんと司さん。ご夫婦二人で住んでいます。
二人とも子供はなく、生き物が大好きな人たちでした。
好き、という感情は生き物相手でも、伝わるものです。
小さな生き物たちも、清子さんと司さんが自分たちを歓迎してくれていることが分かるのか、毎日このお家に遊びに来ました。
小鳥たちが餌に困らないように、梅、南天、木苺、桑、夏グミなどの木々を庭に植えて育てているのは司さん。
木の実の時期が終わって、小鳥たちの食べるものが少そうだな、と思うと庭の木の枝ににみかんやりんごをカットしたものを刺して置くのは清子さん。
二人とも鳥たちが木の実を啄みに来たり、庭で休んでいる時は、決して近づきません。
そっと家の中から鳥たちの様子を眺めて、楽しそうに二人でニコニコ微笑みあいます。
ポツ、パツと音がして、雨が降ってきました。
庭の様子を見ようと、清子さんが家から出て来ました。
空色の傘を広げます。
傘の端から空を見上げると、灰色の重たい雲が空を埋め尽くすように広がっていました。
「今にも落っこちて来そうな雲ねぇ。夏雨かしら」
清子さんが呟きました。
その時足元でカサ、と音がしました。
清子さんが音のした足元の方を見ると、玄関先に植えてある低木ツツジの根本に、まあるい2つの目が見えました。
驚かさないように、清子さんはそっとしゃがみ込みます。
そろぉり、そうっとツツジの根本を覗き込むと、黒い鳥が一羽、蹲っていました。
覗きんだ清子さんをクリクリした目で見つめます。
「まぁ、艷やかで黒い、綺麗な子ね。カラスの子どもかしら?」
黒い鳥はカラスの成鳥にしては体が小さく、顔周りの羽毛はふわふわ。羽根もボサボサだったことから、巣立ちに失敗したのではないかと清子さんは考えました。
「あなた、どこから来たの?お母さんやお父さんは近くにいるのかしら?」
カラスの子を怯えさせないように、小さな優しい声で話しかけます。
周りを見渡しても、耳を澄ませて親カラスの鳴き声を確認しようとしても、カラスも見えなければ、鳴き声も聞こえませんでした。
「困ったわね。でもお父さんとお母さんがきっと迎えにくると思うわ」
静かに佇むカラスの子を励ましながら、清子さんは、カラスの子に雨がかからないように傘を、置きました。
逃げてしまうかと思ったのですが、カラスの子は逃げません。
トコ、トコと二歩、清子さんに近寄って来ました。クリクリした目で、清子さんを見上げます。
清子さんも、微笑みながらカラスの子を見つめます。
カラスの子が羽を広げて、ちょん、と大きく一歩清子さんに近づきます。
清子さんは気が付きました。広げた羽が欠けてまばらです。
何かに襲われた感じでは無かったので、生まれつきの物でしょう。もしかしたら、そのせいで上手く飛べなかったのかも知れません。
「このままだと、あなた、弱ってしまうかも知れないわね。ちょっと待っててね」
清子さんはカラスの子に声をかけると、家の中に入って行きました。すぐにまた玄関の扉が開いて、清子さんが出てきました。
ミルク入りのボールを持ち、エプロンのポケットにはビニール袋に入れた食パンが一枚入っています。
清子さんはしゃがみ込み、身動きせず、彫像のようにジッとしている子ガラスに優しく言いました。
「怖がらなくていいからね。待ってて、今、ご飯あげるから」
ポケットの食パンを4つに割ると、持っていたボールに入れて、パンをミルクに浸しました。
「あなたが何が好きなのか、分からないけど。これは、食べやすいと思うのよ」
そう言ってミルクに浸したパンを手のひらにのせて、そうっと子ガラスに差し出しました。
子ガラスは小首を傾げて、清子さんを見ています。
クリクリ動く黒い目は、キラキラして見えました。清子さんは、にっこり笑うと、子ガラスに話しかけます。
「あなたを傷つけようとしてるんじゃないの。お腹、空かせてないかな?と思って」
子ガラスは首を傾けて、清子さんの話じっとを聞いているように見えました。
そしてくちばしでそっと、清子さんの手のひらにのせられたパンを啄んで、食べ始めました。
食べ始めたら、あっという間。瞬く間に一枚の食パンとミルクが無くなりました。
「あなたが飛べる元気が出るまで、ご飯を持ってくるから、安心してね。あなたは野生の子だから、家の中には入れられないの。でも、ちゃんと元気になるまで見守るからね」
翌日の朝早く。夜が開けかけたかという頃に、玄関の扉が開いて、エプロン姿の清子さんが出てきました。
清子さんが子ガラスを探すと、昨日と同じツツジの根本に子ガラスがいました。
ぴょん、ぴょんとジャンプして近寄って来ます。
「おはよう。あなた、昨日より、ジャンプできるようになったのね。よかったね」
そう言うと、清子さんは、エプロンのポケットからリンゴが入った袋を取り出しました。
子ガラスが食べやすいように、一口サイズにカットしてあります。
手のひらに乗せて子ガラスに差し出すと、そっとくちばしでリンゴをくわえて、器用に食べ始めました。
「しっかり食べて体力つけるのよ」
母親になったような気持ちで清子さんは子ガラスに話しかけます。
子ガラスも、何回かご飯をあげる内に、扉の開く音や足音で、清子さんを判別できるようになりました。
3日ほど経つと、庭で帽子を被って、洗濯物を干している清子さんの頭に、地面から羽ばたいて、とまるようになりました。
清子さんや司さんが庭仕事をしている側の枝にとまってクアクア鳴き、おしゃべりに混じるようにもなりました。
清子さんも司さんも、子ガラスに「カァ子」と名付け、可愛がっています。
「カァ子、今日は夕立があるようだから、濡れて風邪をひかないようにするんだよ」
司さんが話しかけるとカァ子は、
「クァクァ」
と、お返事をします。
珍しく、見知らぬ訪問販売がやって来た時には、
いつもの可愛らしい鳴き方でなく、
「グアー、グアー、グアー」
と、威嚇するように鳴き、訪問者の周りを羽ばたきます。
驚いた訪問販売員は、何事かと玄関に出てきた清子さんに向かって言いました。
「いやぁ、驚いた!お宅には番犬ならぬ、番鳥がいるんですね、ワタシ、カラスはちょっと苦手でして。それでは、失礼いたします!」
訪問販売員が慌てて立ち去り、カァ子が静かになると、清子さんは、カァ子がとまっている物干し竿に近づいていいました。
「不審者を追い払ってくれたのね。カァ子、ありがとう。これからもまた、よろしくね……なんて言ったらだめか」
自分で言って、清子さんは苦笑しました。
「あなたはこれから、自分の家族を作って、子育てしなきゃいけないもんね。いつまでも私達と一緒にいるわけにはいかないんだわ」
カァ子は、話している清子さんの顔を、静かにじっと見つめていました。
「あなたが仲間のところに戻りたいと思ったら、遠慮なく、ここを離れていいからね。そして、遊びに来たいと思ったらいつでもおいで。私も司さんも大歓迎よ」
清子さんがカァ子にそう話をした翌日、カァ子は庭にいませんでした。
清子さんは庭中あちこち探しましたが、カァ子の姿はありません。
清子さんは一時間おき、司さんは三十分おきに庭を見に行きましたが、庭にも家の周りでもカァ子を見つける事はできませんでした。
それは、カァ子を見つけてから、一週間後の事でした。
「たった一週間でも、いなくなると寂しいものね」
清子さんは、司さんにそう言って、少しだけ泣きました。
「野生の子が、あんな風に愛情を寄せてくれるとは思わなかったからなぁ」
司さんも寂しそうです。
「きっと、おまえさんの言葉を聞いて、仲間の所に帰ったんだよ。カァ子にとっては良いことさ」
司さんはそう言って、清子さんを慰めました。
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