プロローグ

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 その日、店に入って案内されたカウンター席に腰掛けようとした瞬間、目に飛び込んできたのは、2つ空けた隣の席で半分空いたグラスと軽食の皿を前に本を読みふける男性の姿だった。  昼間のコーヒーショップなら違和感のない読書姿も、深夜といってもよい時間帯のバーカウンターではいささか浮いて見える。  古いものなのか、少しページの黄ばんだ文庫本はカバーがかけられておらず、そのタイトルが見えた。 「……山家集?」  文字を読み取った瞬間、思わずつぶやきがポロリと口からこぼれた。  男性がつと本から目を上げる。視線が合った瞬間にしまった、と思ったが、口から出た言葉に取り消しはきかない。 「すみません、失礼を」 「いえ。……そうです、山家集です。ご存じですか」  穏やかな声で返事をしながら、わずかに目元を和ませる。30歳前後だろうか。眼鏡をかけた落ち着いた雰囲気の男性だ。 「西行ですよね。願わくは…の歌の」 「ええ。読んだことがおありですか」 「高校の授業で覚えただけで、読んではいません。…渋いご趣味ですね」 「はは、確かに。」  手ごろな価格帯のバーの客の年齢層は決して高くない。まさかここで短歌集について話すことになるとは思わなかった。 「最近この近くに引っ越してきて、荷物を開いていたら出てきまして。ちょうど桜の季節だな、と思ったら読み返したくなりました」 「なるほど」 ― 願わくは、花の下にて春死なん、その如月の望月の頃。 有名な西行の歌は、旧暦の如月、つまり今の時期の歌だ。 「ご注文は何になさいますか」  バーテンダーが会話の隙を縫うように静かにオーダーを尋ねる。 「今、ちょうど桜のリキュールを使ったカクテルをいくつかお出ししていますが。」 「ふうん…じゃあこれをお願いします」 「かしこまりました」
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