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僕が幽霊にとり憑かれたのは、梅雨の時期だった。
その年の梅雨は、本当に雨が多く、週間天気予報を見ると、まるまる一週間が傘マークだったりしていた。
そんな梅雨時に僕は体調を崩していた。
確かに、雨の降る前とか、よく頭痛がするタイプだったけど、今年の梅雨時の頭痛は特にひどかった。いつもなら市販の頭痛薬を飲めば、なんとか一日乗り越えられていたけど、しかし今回の梅雨の頭痛はいくら薬を飲んでも、一向に痛みが治まらなかった。
僕は、仕方なしに病院で検査をした。
しかし医者からは「異常ないですね」と呆気なく言われた。それでも僕は、痛みが強かったので、自分の症状を医者に再度訴えた。でも、医者の答えは変わらなかった。「梅雨時の低気圧のせいもあるし、肩こりからきてるのかも」っと、僕をなだめるように説得した。
僕は医者から、頭痛薬を処方されたが、しばらく試に飲んでみたが、やはりあまり効果はなかった。
僕は医者から言われた、もう一つの原因、肩こりの解消を試してみた。僕は、普段、肩こりを感じるタイプではない。しかし最近、肩が重い気がする。僕の仕事はデスクワークだし、物は試しと思い、整体に行った。
整体で素直に症状を伝えた。病院で頭痛は肩こりから来てる可能性あるって言われたこと。最近、肩が重く感じることもある、っと。
整体の先生は、「きっと、頭痛は肩こりから来てますね」と問診の際に応えてくれた。僕は、頭痛の原因が分かったことに、少し安堵した。
しかし、いざマッサージに入ると、整体の先生は驚いた。「凝ってませんね」と僕の肩をマッサージしながら言う。
僕もマッサージが気持ち良いというより、くすぐったかった。
凝ってない?だったら頭痛の原因はどこから来てるのか?僕は、そんな疑問を整体の先生にぶつけた。
しかし、返って来た答えは意外なものだった。
「霊的なものかもしれませんね」と整体の先生は言った。
「霊?」と僕は訊き返す。
「何かにとり憑かれていて、肩が重いのかもしれませんね」
「えっ、何か見えるんですか?先生」
「アハハハハ、冗談ですよ」と整体の先生は笑いながら答えた。
僕は真剣に悩んでいるというのに、なんて笑えない冗談だ。僕は整体の先生の冗談をスルーするように無視した。
整体の先生は、僕の態度を察してか、言い訳みたいな言葉を付け加える。
「でも実際、そういう症例もあるみたいなんですよ。なんか海外の研究では、霊によって体調が崩れる場合があるっていう結果も出ているそうです。まあ、私には霊が見えないので、真偽のほどは定かではありませんが」
結局、マッサージを受けたものの、頭痛が改善される感じはなかった。
そしてマッサージを受けた次の日、まさか自分が霊にとり憑かれるとは思わなかった。
日曜日にマッサージを受けたので、あれは月曜日の朝方のことだった。
マッサージから帰ると、憂鬱な気分になっていた。頭痛は治ってないし、明日からまた仕事。そして、天気は悪く、ずっと雨が降っている。日中はじめじめと蒸し暑かったが、夜になるとなぜか気温が下がった。梅雨の時期に、ここまで気温が下がるのは珍しかった。冬用の着る物や冬布団などは、もうすでに片付けていた。僕は、肌寒さを感じながら眠りについた。
明け方に一度、目が覚めた。トイレに行って、時間も早かったので、もう一度寝ようとしたが、寒さのせいでなかなか寝付けなかった。血液が回ってなく、体が冷えていた。僕は体を丸くし、布団を覆いかぶさった。
ずっと目を閉じていると、いつのまにかウトウトしたいたのだろう。微睡の中で、目覚まし時計の音がした。目覚まし時計の音とリンクするように、僕の頭痛も疼きだす。
僕は目覚ましの音をすぐに止めたかった。目覚ましの音が止まれば、頭痛も止められるっと勝手に思い込んでいた。
僕は手を伸ばし、目覚ましを止めた。目覚ましの音は止まっても、頭痛はずっと響いていた。次の瞬間、僕は見てはいけないものを見てしまった。それは幽霊。枕元に兵隊さんの幽霊が立っていた。
僕は恐怖した。僕は驚き、声を上げようとするが、言葉が出てこなかった。それどころか指先一つ動かすこともできなかった。金縛りだ。金縛りんなんて初めての体験だったが、これが金縛りなのかっと咄嗟に理解した。
「なあ君、寝ている間、辛そうだったけど大丈夫?」と幽霊が訊いてきた。
訊いてこられても、僕は金縛りで、返事もできないし、体も動かせない。
僕はなんとかこの状況を打破したく、いろいろともがこうと意識はする。しかし、どうすることもできない。
そして、どのくらい時間が経ったか分からないが、どうにか微かに声が出るようになった。そのころには焦りはあれど、不思議と恐怖は去っていた。
「苦しそうだね?」と幽霊が心配そうに僕に訊ねてくる。
僕はお前のせいだろ、っと訴えたいが、それは怖くて言えなかった。「金縛りを解いてくれ」とだけ言った。
「なんのこと?私は何もしてないよ」と幽霊は言い、すっとぼけていた。
僕は、そろそろ起きて支度をしないと、仕事に遅れてしまうと思い、幽霊に強く訴えた。「頼むから、金縛りを解いてくれ。もう仕事に行かないといけないんだ」
僕がそう伝えると、幽霊はしばらく物思いにふけていた。そして唐突に話し始めた。
「私にも、そういう時があったよ。兵隊だったから、体の調子が悪くても、無理して訓練に参加したなぁ。今思えば、無理なんてせずサボればよかったよ。君も体調が悪いならサボったら?」
「休むと、仕事場のみんなに迷惑がかかる」
「みんなに迷惑とか、組織に支障がきたすとか、そんなこと全然ないから。私も上官に言われた。お前たちは、歯車だ。小さな存在だけど、歯車が一つ欠けるだけで、全体が動かなくなる。責任を持って行動しろって。最初は、そうなんだって鵜呑みに信じていたけど、だんだん気づいたよ。歯車の替えなんて、いくらでもいるんだってことに。馬鹿正直に、辛くても我慢していたけど、そんなの間違ってるんだ。辛ければ、休んでいいんだ」
幽霊は続けて、「そう言えば、訓練中こんなことがあったんだ」と言い、昔話を延々と始めた。
僕は、金縛りが解けないでいたし、なんだか瞼も重くなり、次第に意識が薄らいだ。そして、僕は再び眠りに落ちていく。
僕が次に目が覚めたのは、スマホの着信が鳴っていたからだ。僕は飛び起き、時計を見た。時間は、もうすでに就業時間を過ぎていた。僕はスマホを取りながら、意識をはっきりさせる。そういえば幽霊がいない。金縛りが解けている。頭痛もない。「あ、あー」、声も出る。
スマホに写っているのは職場からの着信だった。僕は慌てながらスマホの受信のボタンを押す。
電話相手は僕の上司。上司は心配そうに「どうした?」と訊ねてきた。僕が最近体調が悪いのは、職場のみんなが知っていた。だから、上司は一層心配したのかもしれない。僕は「ちょっと体調が」と、とりあえずお茶を濁す。金縛りにあった、なんて信じてもらえないだろう。そもそも、あの幽霊も金縛りも、僕の夢だったのではないかとさえ思えてきた。
それから上司は、僕の体調のことを訊いた。「連絡できないほど酷いのか?」、「救急車は必要か?」。
僕は「大丈夫です、そこまで悪くないです」と平謝りで謝る。
「それだったら、連絡の一本でも入れてきなさい。あと今日は一日、ゆっくり休んでなさい」
上司はそう言うと電話を切った。
僕は、無断欠勤が許されたことに、ひとまず胸を撫でおろす。そして一呼吸を吐いて、肩の力を抜いた。
「なぁ、別に休んだからと言って、大した問題でもないだろ?」
突然、背後から声がした。
僕は声のするほうに目をやった。すると先ほどの幽霊がたっていた。あれは夢なんかではなく現実だった。
「なんで、そこにいる?」と僕は声を荒げた。
「なんでって言われても、君が気がかりで心配だったから」と幽霊は答えた。
「僕は大丈夫だから、さっさと消えてくれ」と僕は言い返した。
「そうしたいんだけど、そういうわけにはいかないみたいなんだ」
「なんで?」
「さあ、なんでだろう?自分の意志で成仏できないみたいなんだ。悪いけど、少しばかり君にとり憑かせてもらうよ」
「冗談じゃない」
僕は散々嫌がったが、幽霊は僕の部屋から離れてくれなかった。僕も次第に面倒になって、言い争うことを止めてしまった。幽霊は大人しかったし、今の所、金縛りや頭痛になることもない。僕に何か危害を及ぼされることもなさそうだった。僕は幽霊を放っておいて、インターネットで調べ物をした。僕は、検索スペースに『除霊』や『お祓い』という字を入力し、調べた。
僕が調べ物をしていたら、いきなり僕の背後から幽霊が声をかけてきた。気配というのがないので、突然現れる幽霊の姿に、僕はいちいちビックリする羽目になる。
「そんなこと調べても無駄だよ」と幽霊は言う。「そんなことで成仏しないし、それに私がここにいられるのは、この雨が降っている間だけだと思うし」と幽霊は付け加えた。
「雨が降ってる間?」と私は訊き返した。しかし、幽霊はそれについて説明をしてくれなかった。
僕は幽霊の言ったことは無視して、インターネットで『除霊』や『お祓い』を調べ続けた。そして、今できる盛り塩を試してみた。しかし効果は、なかったみたいだ。幽霊は僕の姿を見ながら、やれやれっといった身振りをした。
僕はそれから、ユーチューブからお経を探し流してみたり、割り箸で十字架を作ったりしてみたが、幽霊は僕のやっていることなんて見向きもしたいなかった。
僕は次第に諦めた。せっかく仕事を休んだのだから、ゆっくりしようと思うようになった。最後にインターネットで天気予報を調べてみた。どうやら、この一週間ほどで梅雨も明ける予定になっていた。
こうして幽霊と僕の共同生活が一週間ほど続いた。
次の日、火曜日の夜明け方、頭痛とともに目が覚めた。目が覚めたけど、体が動かない。また金縛りだ。あの幽霊は、どこにいる。目線だけで奴を探そうとするが、僕の視界に幽霊に姿は映らなかった。
しばらく時間が経つと、頭痛は薄らぎ、瞼が重くなる。僕は再び眠りにつく。
目覚ましが鳴って、僕は起きる。この日は、僕は動くことができたし、仕事に行けることもできた。
しかし問題もある。僕の背後にはピタリと幽霊が付いて来ていた。
僕は電車で通勤しているのだけど、幽霊が子供みたいに列車のシートに後ろ向きに座り、窓から外を眺めている。
「見て、見て、高いビル」「あっちのビルも高い」「あのビル、ガラス張りだよ」っと、幽霊はしきりに僕に話し掛けてくる。幽霊の言葉は、とり憑かれている僕にしか聞こえないらしく、他の乗客は何の反応を示してなかった。
僕は、幽霊と一緒に電車に乗ってることに最初はソワソワしていたが、次第に慣れて、幽霊の言葉は完全無視していた。
仕事場に着くと、まず上司の所に行き、昨日のことを謝った。「連絡も入れず、すみませんでした」と言って、頭を下げた。
上司は「次からは気を付けて」と言うだけで、大して怒られはしなかった。「体調のほうは、どうなんだ」と心配までしてくれた。僕は「まあ、なんとか」と言うに留めた。
僕は再び頭を下げ、自分の席に戻ろうとしたとき、上司が一言付け足した。
「今日、社長がいらっしゃるから」と。
わが社では、上司が「社長が来る」と部下に伝えるとき、それは『今日、会議をするよ』と言っているのと同義だ。
そしてこの会議というのが、ただただ長いだけの会議で、何の生産性もない、無駄な時間を費やすだけの会議になっている。社長に、こういうことをやっていますよ、っと伝えるだけのものになっている。
はっきりといって、こんな会議、仕事の進行を妨げるものになっている。これは僕だけでなく、ほとんどの社員が思っていることだろう。
社長が自分の威厳を示すためなのか、社長の腰巾着が社長をよいしょするためなのか、それだけのために手を止め、会議に参加させられるのだから、たまったものではない。
昼前に僕は会議室に呼ばれた。会議室には僕以外にも多くの社員が席に着いていた。席に着いて、社長が来るのを今か今かと待っている。
社長が来ると、全員が起立し、頭を下げて礼をする。社長は、堂々を歩き、社長席に座り、踏ん反り返る。
一人一人、仕事の状況を社長に報告する。仕事の内容によっては、僕が関わってない仕事の話も聞かないといけない。
社長は社員の話を聞いたあと、「私が若い時にはね、・・・・・・」と言って、時代錯誤のアドバイスを偉そうにしている。僕は、心の中でため息を吐く。
会議は長々と続いていくが、途中で僕の頭は徐々に疼き出した。そして僕の隣に立っている幽霊が、僕に話しかけてきている。
「ねぇ、この会議、無駄なら無駄って言おうよ」「社長より、良い提案があるなら発表しよ」「自分の意見、言ってみようよ」
僕は心の中で、『うるさい、黙れ』と言い返す。しかし頭痛が強くなり、幽霊のおしゃべりも止まらない。
「私も上官に言えば良かったことがあるんだ。あのとき私一人でも戦争反対を訴えれば良かった。当時、そんなことを言ったら、非国民扱いされたから、怖くて言えなかったんだ。でも、ほとんど人は、口にせずとも、戦争なんかしたくないっと思っていたはず。私が口にすることで、ひょっとしたら何かが変わったかもしれないと思うと残念でならない。君も正しいと思うことがあれば、恐れず声に出して」
僕は頭痛の原因は幽霊に反抗することで起きていると感じた。だから頭痛からの解放を求め、会議中に挙手し発言した。
「社長をよいしょする会議、そろそろ辞めませんか?会議するなら、仕事の進行に役立つものにしましょうよ」
僕がそう言うと、それまで俯いて机を見ていた社員が皆、僕のほうに注目した。そして、しばらく会議室は静寂に包まれた。誰も、一言も発しなかった。僕は、みんなの視線が刺さるように感じた。
静寂を打ち破ったのは、社長だった。顔を真っ赤にして烈火のごとく怒りだした。「お前みたいな半人前の新人に何が分かるんだ」と怒鳴られた。しばらく罵声のごとく怒鳴られていると、僕の直属の上司が立ち上がり、頭を下げた。「私の管理指導不足でした。申し訳ございません」と。
今度は僕ではなく、その上司が怒られていた。僕は、より一層後悔した。やっぱり言うんじゃなかった、っと思った。
しばらくして会議は中断し、そのまま終わりを告げた。僕はすぐに上司に謝りに行った。上司は、「もういいから、仕事をしろ」と、すぐに言ってくれた。
昼休憩に入ると、数人の同僚が僕の所に来た。「ナイス」と言ってくれる人、「よく言った」と言う人もいた。もちろん、僕を避け、変な奴という目で見る人もいた。でも結局、あんな問題発言したにもかかわらず、午後からは通常通りの仕事をこなしていた。
幽霊の無茶振りは、まだまだ続く。
水曜日、やはり雨。明け方は金縛りと頭痛がある。この日は、仕事が終わって家に戻ってきてから、無茶振りがきた。僕の部屋に置いてあるギターを指差し、「君、歌好きなの?」と訊いてきた。僕は「まあ」と曖昧に答えた。
僕は学生時代、歌手を本気で目指していた。でも、僕には才能が無かった。飛び抜けて歌唱力があるわけではなく、作詞や作曲の才能もなく、僕は夢破れた。
今の職場に就職し、それからは自然と歌は歌わなくなった。
「ねぇ、歌ってよ」と幽霊が言う。
「ダメだ。近所迷惑になる」と断る。
「じゃあ、外に行こう。路上で歌ってよ」。幽霊はしつこく言う。僕は嫌な表情をしたけど、その瞬間、頭痛の予兆を感じた。
「はい、はい、分かりました」と、僕は渋々承諾した。
雨の降る中、ギター片手に繁華街を歩く。平日の雨ということで、人通りは多くない。僕は、雨で濡れないような場所を探した。
僕は学生時代に、ライブハウスや文化祭など人前で歌った経験もあるし、もちろん路上でも歌ったことがある。ほとんどはカバー曲を歌っていたけど、人前で歌うことには慣れていた。だから今回の幽霊からの無茶振りは、割とすんなり受け入れられた。
ただ、久しぶりに演奏するので、指がスムーズに動くか心配だった。
僕は屋根があり、人通りの静かな場所を見つけた。とりあえず指の運動がてらギターを弾いた。思いのほか悪くない。次に軽く発声練習をする。まずまずだった。
僕は歌を歌い始める。学生の時に歌っていた歌だから、ひと昔前の歌。まばらに歩いている人は、誰も立ち止まらず通り過ぎる。それでも僕は心地よかった。雨という雰囲気もあるのか、自分の世界に入り込んだ感覚になる。夢破れて歌手にはなれなかったけど、やはり僕は歌うことが好きなんだ。
「僕も好きなことがあるんだ」と幽霊が言った。「僕は、絵を描くことが好きなんだ。訓練の合間の休憩に、絵を描くことだけが安らぎだったなあ」
幽霊はポケットから手帳と鉛筆を取り出し、絵を描き始めた。僕がギター片手に歌っている絵だった。さらさらと描いたデッサン画ではあるが、とても上手な絵だった。
しばらくすると、通りがかった人が、僕に小銭をくれた人がいた。僕の歌を評価してくれたのか、それとも雨の中、可哀そうだと思ったのかは定かではないけど。
「おお、すげぇー、お金貰えたじゃん」と幽霊が大喜びした。幽霊の喜ぶ姿を見て、僕までも嬉しくなった。たった数百円なのに。僕は昔のことを思い出した。僕も自分の好きな歌で、初めてお金を貰った時は感動したなっと、当時のことが鮮明によみがえった。
木曜日。この日も雨。天気予報では、今週の土曜日までが雨。ゴールが見えてきた。
この日の幽霊は、「友達と一緒にご飯を食べよう」と言い出した。
数少ない友達の中から、僕は連絡を入れる。平日ということで、一人だけOKを貰えた。
友達と会うと、その友達は「どうした?何かあったか?」と訊いていた。突然の僕からの連絡に驚いたみたいだ。僕は「ただ、なんとなく」と誤魔化した。
その友達とは居酒屋に行き、酒を飲みながら話をした。学生時代の昔話。楽しかった行事や嫌な先生の話で盛り上がった。そしてお互いの近況についても話し合った。
僕は知らなかったけど、友達は最初の就職先がブラックで、精神を病んで休職していたのだ。今は回復し、収入的には下がったが、ストレスのない職場に勤めているという。
「だから俺、友達が悩んでいそうだったら、できるだけ駆けつけようって決めてるんだ」と、友達はビールを飲みながら話してくれた。
友達は、僕からの突然の電話は、僕のSOSだと思ったらしく、だから急な誘いにも乗ってくれたのだ。
僕は、嬉しかったけど、その反面、恥ずかしかった。僕は、友達が大変な時、何も気が付けなかったし、手を差し伸べてあげれなかった。
「お前は、すごいよ」と僕は言った。
「そんなことないよ。自分が辛い目になったから気づけただけだよ」と友達は言った。
この日、僕が奢った。僕から誘ったことだし、友達は僕のために駆けつけてくれたのだから。友達は遠慮していたけど、僕が強引に伝票をもぎ取った。
友達は、別れ際に「今度は俺が奢るから」と言って去って行った。
友達と別れた後、幽霊が独り言のように話し出した。
「私にも友と呼べる仲間がいた。お互いに助け合おうと誓ったはずなのに、私は、恐ろしくて、友を助けに行くことは出来なかった。彼に会って、謝りたい」
僕は、幽霊に何も言ってやることは出来なかった。たぶん、僕の想像をはるかに超えるような出来事があったはずだ。気軽に、慰めの言葉なんて言えなかった。
金曜日。金縛りに慣れ、またかっと思い、普通に二度寝した。
この日、仕事帰りに、幽霊の無茶振りは僕の斜め上を行っていた。
「ねぇ、君はガールフレンドとかいるの?」と幽霊が訊く
「彼女?いないよ」
「じゃあ、気になる女の子とかは?」
「いない」
僕の職場は、ほとんど男性陣。女性は、僕より一回り以上年上のパートさんくらい。社会人になってから、出会いがない。もともと、女性に積極的になれるタイプではないので、彼女どころか、女性の知り合いすらいない。
「ガールハントしてみようよ」と照れながら幽霊は言う。
「はぁ?」と訊き返す。
「だからガールハント」と幽霊は強い口調で言う。
幽霊はナンパのことを言っているのだろう。
そんなこと僕にできるわけがない。初対面の女性に声をかけるなんて出来ないし、やったこともない。そもそも、マッチングアプリですら、ほとんどしたことがない。何回か試してみたけど、会うことができても、会話が弾まないのだ。何を話せがいいか分からないし、緊張する。あんなに変な汗をかくくらいなら、無理して彼女を作ろうとは思わない。
「無理、無理、無理、絶対無理」と僕は断る。しかし断った途端に頭痛が来る。僕は、「だから、それ止てくれ」と幽霊に訴えかける。
「えっ?なんのこと?」と幽霊はとぼけていた。
結局、幽霊の無茶振りに逃れることは出来なかった。
繁華街に行くと、今日は花金ということで、人通りもまずまずあった。僕は、雨が降ってるのだから帰ればいいのに、と思ってしまった。
僕はある場所で待機する。ここは、見通しも良くて、人通りもあり、よく待ち合わせ場所にも使われている。
しかし僕は、なかなか女性に声を掛けることは出来なかった。一人で立っている女性は、誰かと待ち合わせているのではないかと考えたり、一人で歩いている女性は、目的地に急いでいるのではないかと考えたり。そうこうしている間に、一時間ほど経っていた。
「ねぇねぇ、誰かに声掛けないの?」
痺れを切らし、幽霊が訊いてきた。僕は、「分かってる」と怒った。僕だって、声を掛けたいんだ。一歩を踏み出したい。
「あの人はどうかな?」「あっちの女性は」と幽霊は指を指して指定してきた。
僕は、その女性のそばまで行くが、やっぱり一言喋る勇気がない。
結局、僕は一人も声を掛けられず、二時間以上が過ぎてしまった。
「やっぱり無理だわ。情けないけど、声掛ける勇気がない」と僕は幽霊に謝った。
「謝らなくてもいい。私も君と同じだよ。私は好きな人に告白すらできなかった。勇気がなく、何も告げることなく、私は戦地に向かったのだから。今思えば、あのとき、フラれてもいいから、好きって言えば良かった」
僕は、数人の女性に声を掛けた。
無視する人もいれば、「ごめんなさい」と言ってくれる人。結局、ナンパは一人も上手くいかなかった。時間帯も遅くなりすぎたのかもしれないし、僕が挙動不審だったかもしれない。でも自分なりに、よく頑張ったと思う。
幽霊が僕の両肩に手を置き、「モテなくても、生きてりゃいいこともあるさ」と励ましてきた。
僕は「ほっとけ」と言い、両肩にある手を払おうとしたが、相手は幽霊なので素通りした。マジで鬱陶しい奴だ。
土曜日、雨。天気予報では雨は今日まで。金縛り、頭痛は明け方の日課。でも、それも今日まで。幽霊さえ去ってくれれば、もうこの症状ともおさらば。
今日は仕事は休み。いつもよりゆっくり起きて、朝ご飯を食べていたら、「お母さんに、会いに行こう」と幽霊は言った。
僕の実家は、電車で片道二時間ぐらいかかる。最近は面倒だからと言って、頻繁には帰らない。まあ、幽霊の無茶振りにしては、簡単な部類だったので、僕は承知した。
実家には昼過ぎに着ければいいと思い、ゆっくり支度をし、出発した。
電車に乗って、実家の最寄り駅に降りた。最寄り駅を降りたらすぐに、幽霊に呼び止められた。そして指をさた。
僕は幽霊の指の方向を確認する。そこには小さな花屋があった。
「花、買って行こう」と幽霊が言う。
「はぁ?」
「お母さんに、花をあげよう」
「嫌だよ」
「なんで?」
「そんなの恥ずかしい」
頭にズキンっと痛みが走る。「分かった。分かった」と僕は言った。
花屋に入るのは、あまりないことだから、僕は恥ずかしかった。
僕が店に入ると、「いらっしゃいませ」と花屋の店員が言った。
僕はあまり目を合わさず、花を見た。なんでもいいので、早く買って帰りたかった。
店内に入ってすぐに目についたのが、アジサイだった。紫色のアジサイを僕は選んだ。店員を呼んで、僕は「このアジサイ、ください」と頼んだ。店員は、「何本になさいますか?」って訊いてきた。僕は少し考え、「一本でいいです」と答えた。
家まで持って歩くのに、大きいと目立つから嫌だったのと、しょせん母親にあげるものだからっと思い、一本にした。
僕は一本のアジサイを持って、実家の玄関のチャイムを押した。
母親が出てきて、僕の顔を見るなり、「どうしたの?突然に」と驚いていた。
「まあ、暇だから帰って来た」と僕は答えた。そして、持っていたアジサイを母親に渡した。
母親は、僕とアジサイを交互に見る。そして、さっきより驚いた顔をして、「私に?」っと言った。
僕は、照れ臭かったので、何も言わずに差し出した。
母親は、嬉しそうは表情で、一本のアジサイを活けれそうな花瓶を探していた。
「ところで、昼ご飯、食べたの?」と母が訊いてきた。
僕は、「まだ」と答えた。
「前もって連絡してくれたら、何か作って待ってたのに。今何にもないわよ」
「なんでもいいよ。おかずがなければ、おにぎりでもいいよ」
母親はアジサイを活けた後、僕におにぎりを握ってくれた。
「父さんは?」と僕がおにぎりを食べながら訊くと、「釣りに行ったわよ」と答えが返って来た。僕は「雨が降ってるのに、好きだね」と呟いた。
それから、母が僕にいろいろ訊いてきた。仕事はどう?とか、ご飯はちゃんと食べてるの?とか、体調はいいの?とか。
僕は面倒なので、全部の答えに「ああ、大丈夫」と返していた。
「結婚は?」と訊かれた瞬間、僕は食べていたおにぎりが喉につっかえてしまった。咳をし、水を飲み、落ち着いてから、「そんなの予定すらないから」と強めに答えた。
幽霊といえば、いつもなら、あれしろ、これしろ、っと命令するけど、今日は大人しかった。ただ僕たちを、そっと隣で見ているだけだった。幽霊は、微笑ましそうに見ているような、それとも羨ましそうに見ているような、そんな複雑そうな目をしていた。
今日は実家に泊まることにしていたので、とりあえずゆっくりとくつろいだ。
「晩御飯、何がいい?」と母親に訊かれたけど、「何でもいい」と返した。僕は、しばらく横になって眠ることにした。
僕は、不思議な夢を見た。幽霊との別れの夢だった。
雨の中、僕たちは傘も差さずに立っていた。
「君は、こんなことを知っているかい?この雨の中には、私たちの涙も入っているんだ」
幽霊は両手で雨を受け止めるように差し出し、僕にそう言った。僕は雨の降る天に顔を向けた。
「泣いた涙は蒸発し、空に昇り、それがまた雨と一緒に地上に降り注ぐ。この周期が80年なんだ」と幽霊は言った。
僕は、幽霊に何か言おうとするが、言葉が口から出てこない。
さらに幽霊は続ける。「君たちは平和な時代に生まれたから、いくらでも時間はあると思いがちだけど、そんなことは誰にも分からない。人は、いつ、どうなるか分からない。だから自分の心に正直に生きてほしい。大切なものを大切にする勇気を持って生きてほしい。今降っている、この私の後悔の雨を、80年後には君の歓喜の雨にしてくれ」
幽霊は敬礼をし、姿を消した。
僕は結局、何も言えなかった。
僕が、その夢から覚めたのは、なんと3週間後のことだった。
僕は意識を失っていたので、これは後日、母親から聞いた話である。僕は、昼食後、仮眠をとっていると、突然唸りだし、体が痙攣し、意識を失ったそうだ。母親はすぐに異変に気付き、救急車を呼んだ。
僕は救急車で病院に着くなり、すぐに緊急オペになったそうだ。頭を開く、開頭手術をしたそうだ。
術後、僕は昏睡状態で、三週間、意識が戻らなかったそうだ。
病名を先生から聞いたが、まあ長い病名で、それを覚えるには、今の僕の脳には負担が大きい。ただ、少しでも遅れていたら、助からなかったそうなのだ。
まだ入院中でほぼベッドで寝たきり。これから体力の回復を見て、リハビリをしないといけないんだとか。僕の左手の感覚は、ほぼない。リハビリで戻るかもしれないし、後遺症として多少残るかもしれないそうだ。
執刀医の先生が、「手術前から頭痛があっただろ?」「体が自由に動かせなくなったりしなかったのか?」と問診してきた。「たまに幻覚や幻聴の症状を訴える患者もいるんだよ」とも言われた。
幻覚?幻聴?そんなバカな。あれは実際に起きた出来事のはず。
僕は病院の窓から外を眺める。窓から見える空は、どこまでも高く青かった。日差しも、空気を歪ますほど強かった。もう真夏の空だ。
僕は、心の中で祈った。雨よ降れ。
幽霊に言われて実家に戻ってなければ、僕は死んでいたかもしれない。
どうしても、お礼が言いたい。
雨よ、兵隊さんの幽霊をもう一度、連れてきてくれ。
********
不正直と臆病とは、つねに報いを受けることを決して忘れるな。
ジョージ・オーウェル (英:小説家『1984年』)
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