かわき

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 わたしにはヒーローが居る。  わたしの死にたさが頂点まで達するとどこからともなく現れる。そしてわたしの死の邪魔をする。わたしの肩に手を回して、なにかをささやく。なにをささやかれたのかは、決して覚えていられない。その瞬間に、わたしの死にたさがしゅんと萎んで消えてしまう。  海外の小説や、洋画なんかでは『あなたの善き天使』とか言われるやつかもしれない。でも見た目は真逆だ。顔は土色。髪の毛は縮れていて、ひどい乾燥のために黒髪がグレーに見える。目は落ち窪んで、乾ききった口からいやなにおいがしている。  彼がわたしにささやこうとするとき、いつもイヤだなあと思う。口が臭いからだ。しかしわたしは動けない。なにかがささやかれる。わたしの死にたさが、しゅんと消えるとき、彼の口のにおいは消えて、彼の全身が潤いを取り戻す。  わたしは彼にすがったことはない。彼に涙を見せたこともない。わたしの全身に死にたさが満ちて居るとき、わたしの外観は常とまったく変わらない。はずだ。  それなのに、彼だけは嗅ぎつける。駅のホームで、校舎の裏手の駐輪場で、踏切の前で、セキュリティのゆるい市営団地の上階の外廊下で。わたしの前に現れて、臭い口でなにかささやいて、潤いを取り戻して、去る。残されるのは、手指の先まで満ちていた希死念慮が抜けたあとの真空状態のわたし。  なんてありがたいヒーローだろう! またわたしの命を救いました!(わたしは彼にキスをするべきだろう!)  彼にキスをする機会はない。潤いを取り戻した彼は、漆黒の瞳に毛先まで水分に満ちた髪、血色のいい頬と唇をした美少年に変わっている。頬や唇どころか、足のつま先にキスしたっていいくらいの神々しい美少年だ。しかし真空になっているわたしは、そのことに気づくまでに時間がかかる。ぼうっとしているうちに、彼はいずこともなく消えてしまう。さようなら、きっとまた会うでしょう。わたしが死にたくなったら。  その関係のままわたしが思春期を終えるものだと思っていた。そして思春期病であるわたしの希死念慮も、消えるのだろうと。おたふく風邪みたいに、みんな経験して回復して耐性ーーつまり死にたさに関して鈍感になるということーーを得るんだろうって。だってみんなそう言っている。海外旅行先で乗ったカヌーの事故で死んだお兄ちゃんだって、「俺もそうだった」と笑ったし。事故のときに、お兄ちゃんははもうとっくに思春期を抜けていて、死にたさが無くなってから死んだのだ。    わたしの後ろの席の子が、さらに後ろの席の子に背中をカッターで切りつけられた。カッターで切りつけた方の子が、切りつけられた方の子にいじめられていたとかそういうことは無い。わたしの観測する限りでは。なお、わたしはそこそこ有名な私立の女子校に通っているので登場人物はみんな女の子だ。ああまた死にたくなってきた。  学校も友達も嫌いじゃない。嫌いなのはこの空間にいる自分だ。そこでうまくやっている自分だ。後ろの席の子がいつでもそのさらに後ろの席の子の机に寄りかかって(というかスカートのお尻を半分くらい乗せている)友達と騒いでいるのを見て、わたしの机に座られていたら最悪だけど、そうじゃないから良かったと思うくらいにはやれている。そんな状況を知りながらも、「いじめではない」と判定するくらいには、やれている。いじめだと判定したところでなにもしないけれど、それこそわたしが最高にうまくやれている証拠だ。  で、カッターだ。カッターで背中を切りつけられた方の子は冗談みたいに甲高い声で叫んだ。多分、事件の被害者になることに興奮していたんだと思う。だってあんな声、出る? キャー!  周りの子もみんな騒いでいた。チンパンジーの檻みたいな感じ。においだけは、制汗剤と化粧品の混じったにおいだけど。ほら、チンパンジーの檻はうんこのにおいだから。差といったらそれくらいだ。歯もむき出してるし、キーキー言ってる。  カッターで切りつけた方の子は、無言で立ち上がって教室から出て行った。手にはカッターを握ったままだったから、みんなキャアキャア言いながら道を開けた。あんなちんけなカッターじゃ、がんばっても薄地の夏服のスカートを切るのがせいぜいだ。ほら、電車内でそういう痴漢と嫌がらせの間みたいなこと、あるでしょう。あの程度。背中を切りつけられた子だって、ブラウスと下着が裂けたかもしれないけど、肌についた傷はひっかき傷みたいなものだ。 「傷、見せて」  って言って、きゃあきゃあ騒ぐその子の背中を確かめたから間違いない。突き刺せば良かったのに、と思った。 「保健室につきそってあげて」となにを勘違いしたのか、古文担当の女教師が言った。彼女は若くて、美人で、でも中途半端な丈のキュロットをいつも履いていて、似合ってない。噂によると、以前は共学で教えていたけれど、男子人気をひがんだ女子にいじめられて、うちの学校に来たそうだ。ホントかよ。みんな暇だから、噂が好きだ。 「英田さんを追わないといけないので」  とわたしが返すと、教師は少し困った顔をした。英田さんというのは、まあ流れで分かると思うけれど、カッターで切りつけた方の子だ。  教師が困った顔をしたのは、本来は自分が問題を起こした生徒を追うべき立場だと考えたからだろう。でもやりたくなかった。彼女は担任でも何でもないし、カッターを持った、突然おかしくなった子供の世話なんかしたくない。だから良いとも悪いとも言わないで、迷う演技をした。その間に、わたしが「勝手に」英田さんを追えるようにだ。 「突き刺せばよかったのに。瀬古のやつ、ブラウスがちょっと切れただけで騒いでるよ」  校舎裏の職員用自転車置き場に、英田さんは居た。カッターを持って、立っていた。英田さんの表情はよく見えなかった。顔が陰になっていたから。  何の陰か。雲だ。  彼女の頭の上に濃い灰色の雨雲があった。彼女の周りを遮光カーテンみたいに雨が取り囲んでいた。でも英田さんの髪の毛や制服や靴がびしょ濡れになっていたかというと、そんなことは無い。カラッと乾いていた。  わたしの喉もからからに渇いていることに、そのとき初めて気づいた。口に手をあててこっそり息を吐いて、においを確かめる。臭かった。肩にかかっている自分の髪の毛が、他人の、おばあちゃんの髪の毛みたいに見えた。ぱさぱさでグレーがかっていた。  英田さんの降らせる雨をまた見つめる。喉が鳴った。わたしはあれを飲まなければならない。そうでなければ渇きは癒えないと知っていた。  英田さんの肩に手を回した。彼女の右手にあるカッターには、一滴の血もついていなかった。かわいそうな英田さん。血がつくべき刃に血はつかなかった。じゃあ別の血を足さないとね、なんてことを英田さんが考えたのかは知らない。いきなりおかしくなった級友の頭のなかなんか知らない。それでもわたしは喉が乾いていた。  英田さんが眉をひそめた。分かるよ、口臭が気になるんだね。 「あなたの雨水を飲んであげる」  彼女の耳によせた唇から発せられた言葉は、私の知っている言葉だ。 「きみの雨水を飲んであげる」  ヒーローはそう言っていた。いつもそう言っていたんだ。  ということを思い出したけれど、別段、感動は無かった。それよりも喉が渇いていた。  唇をつきだして、彼女の瞼に口づける。彼女は泣いていない。しゅっと吸い込んでみると、彼女の周りに降る雨がわたしの喉を通って行く。細胞の隅々まで、水が満ちていく。最後には灰色の雨雲も、真珠くらいの大きさにまとめて飲み込んだ。  雲は甘かった。わたしの舌から、歯から、甘い香りが漂った。さっきまでのイヤなにおいは消えていた。爪はネイルを塗ったみたいに桜色に輝いていた。肩にかかる髪の毛の先も、キューティクルがぎゅんぎゅんに揃っていた。わあすごい。シャンプーのコマーシャルみたい。  英田さんは、何もない顔をしていた。わたしはこの顔を知っている。真空になっている。体に満ちていた死にたさが急に抜き取られて、どうしたらいいか分からなくなっている顔だ。  彼女を置いて、わたしは教室に帰った。古文の授業は終わって、休み時間になっていた。騒ぎを聞きつけてやってきていた担任に、英田さんの居場所を伝えて、そこでわたしの出来ることはおしまい。     「きみの見つけた雲は、なかなか雨を降らせないよ。ご愁傷様だね」  家の最寄り駅の改札を出たところで、例のヒーローがわたしを待ち受けていた。予感は有ったので、驚きはしなかった。 「一度あの雨水を見てしまったら、もうあれなしでは生きられなくなるんだ」  無視をして歩くわたしの後ろから、彼が声をかけ続ける。 「どうして人を助けようとなんてしたんだ? ただの愚かな死にたがりの女子高生でいたら良かったのに。それで定期的にぼくに水をくれていたら、そのうちにーー」 「希死念慮なんてなくなる。思春期病だから」 「そういうこと。そして思春期病はみんながかかる。失礼、正確じゃなかった。殆どみんなが、かかる」  立ち止まって、彼の顔を見た。美しかった。でも感謝のキスをする相手にはもう見えなかったし、ヒーローでも無かった。彼の本質はあの、カラカラに乾燥した、口の臭い、水を求める亡者だからだ。  そしてわたしも。 「助けようとなんてしていない。急に頭がおかしくなったクラスメイトと話してみたかっただけ」 「それで、どうだった?」 「会話なんかしなかった。喉が渇いてたまらなかったから。これからも彼女を見たら喉が渇くだろうね」 「それで、また彼女の上に雨が降ればいいと願うようになるんだ。ところで、きみは今日明日くらいに死にたくなりそう?」  彼の口から、薄く悪臭が漂ってきていた。 「あなた、カヌーは好き?」 「嫌いだね」  逆光の中で彼が言った。
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