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最終話 夜明けの空
山田と飲んだ次の日、二日酔いにはならなかったけど、モヤモヤして目が覚めた。
職場の男と関係を持つのは、要注意だ。お酒の勢いは以ての外だ。
翌週まで山田と会うことはなかった。山田は他の店舗も回っているから、会わない時は1ヶ月以上会わないこともある。山田の顔を見て安堵したけれど、山田は私に全く話し掛けて来なかった。
「どうしたんですか。私に話すことありませんか」
山田にだけ聞こえる声で言うと、山田は慌てて頭を下げた。
「今度ちゃんと話します」
私はどうしたいのだろうか。白黒つけてどうするのだろうか。私の答えが決まっていないのに、山田を見たらとつい言ってしまった。山田にツッコむのはお酒は関係なかったみたいで、素面でも自然と言葉が出てくる。
山田の言葉通りちゃんとした話だった。
「結婚を前提に付き合って下さい」
すぐに返事ができなかった。いきなりそうくるか。
「とりあえず今まで通り一緒に飲んだりして、そういうことを考えることができたら」
男みたいな自分の返事に自己嫌悪する。山田は勇気を出して言ってくれたのに、答えを出せず保険をかけている。いい人で、仕事もちゃんとしている人だ。悪い条件はないけど、付き合う理由を探していることに違和感がある。山田のことが好きなのか。一緒にいるのは楽だけど。
男は嫌だと思うけど、女は女友達に全てを話す。もちろん話す相手は真紀だ。男女の話は最高の肴だ。
「ふたりで何回か飲んでるんだよね?じゃあ、決まりじゃない?」
「どういうこと?」
「梢の場合、嫌な男性と何回もふたりで飲まないでしょ。いいじゃん、激しい恋じゃなくても。ちょっとはいいと思ってるでしょ、その人のこと」
焼酎をロックで注文する。考えちゃ駄目だ。感覚も大事にしないと。
「もうすぐお盆だから、お盆明けには答えを出す」
「よし、梢飲もう」
また飲み過ぎた。酔っ払った勢いで、昨夜、山田にメッセージを送っていた。
『私のことそんなに好きなら付き合ってもいいよ。どれくらい好きなの?』
お盆明けに答えを出す話はどこいった私。早朝にスマートフォンが震えた。ドキドキしてスマートフォンを覗くと、山田からだ。
『大好きです。梢さんのことばかり考えてしまいます』
いつも高橋さんと言う山田からのメッセージに、梢さんとあった。シンプルに大好きの言葉が、素直に嬉しかった。すぐに返事を返した。
『よろしくね』
自分が思っているより、山田の言葉が嬉しかった。これからのことを想像するとワクワクして、落ち着かなくて、外に出た。
背中が空いたブラウスを着て、公園まで歩く。まだ朝早くて、公園には誰もいない。空には白い月が見える。
夏の朝は少し冷んやりして気持ちいい。背中のタトゥーをオープンにして初めて外を歩く。蛹から羽化したような解放感。もっと自分をオープンにしたい。そうしたら本当に飛べるんじゃないか。
ベンチに腰掛けて月を見ていると、黒い蝶がヒラヒラと飛んできた。私の背中の蝶に誘われたのかな。黒い蝶はベンチに止まった。蝶としばらく睨めっこ。
コンビニでアイスコーヒーとパンを買って帰る。パンをかじりながら、朝のニュースを見る。今日は快晴のようです。
テーブルに置いたスマートフォンがブーンブーンと鳴っている。山田からの電話かと思ったら、お母さんからだ。電話に出ても、すぐに応答がない。
「もしもし、お母さん、朝早くにどうしたの?体調悪くなった?」
「慌てないで聞いてね。お父さん倒れたの。今日仕事休んで、すぐ来て」
声が低い。電話口で、耳が痛くなるほどの甲高い声で喋るお母さんの声とは思えない。一瞬頭が混乱するが、確かにお母さんだ。何故かそれはわかる。
「何で倒れたの?今日行かないと駄目?」
「すぐ来て」
いつも饒舌なお母さんが言葉少ない。嫌な予感がして、汗が止まらなくなった。リュックに化粧ポーチと財布を入れて、すぐに家を出た。着替えないで出てしまったことに、駅で気付いたけれどもう戻れない。
仙台駅に着くと、お母さんが改札前で待っていた。いつもは車で待っているのに。
お母さんとタクシーに乗った。行き先が病院じゃないことはわかった。
タクシーから降りると、3階建ての白いビル。お母さんの2歩後ろを付いて行く。お母さんは何も喋らない。それが伝えたいことだと娘の私にはわかる。
扉を開けると、段差のある小さな和室があった。真ん中に座布団があって、その前に小さな台、そして大きな白い箱があった。
「梢が来てくれたよ」
白いシャツと黒いベストを着た女性が箱を開けてくれた。お母さんが白い布を取ると、パンパンに顔が腫れたお父さんの顔があった。
全く理解ができなかった。この前まであんなに元気だったお父さんが何故ここで寝ているのか。倒れたのなら病院じゃないのか。ドラマで見るような最期のやりとりもない。
お父さんは昨夜倒れ、朝方病院で亡くなったらしい。お母さんの話だと、市場で倒れたと思っていたが、市場に行こうとして、自転車に跨いだ時倒れたようだ。倒れた原因は脳出血。発見が遅かった。
お家に着くと、お父さんの自転車が倒れたままだった。
「お父さん、明後日まで仕事忙しかったから、昨日空いた時間に市場に行こうとしたみたい。カニ買うって言ってたよ」
玄関に入るとお父さんのサンダル。玄関マットにはお父さんのスリッパ。
居間の端に、無造作に作業着の上着が置かれていた。
洗面台で手を洗うと、お父さんの歯ブラシが目に入る。
そうか今週末から私帰省だったから、急いでお父さんカニを買いに行ったのか。そう思って、洗濯カゴのお父さんの服が目に入ったら、涙が止まらなくなった。
お母さんが後ろに立っていることにも気付かず、洗面台の前でしばらく泣いていた。
「こうやって見ると、綺麗ね。その蝶」
お母さんの声は、母の声になっていた。泣きべそかいた私に話しかける声。
「うん、綺麗でしょ。お父さん見たら怒ると思うけど」
感情を飲み込んで出した私の声は、ガラガラだった。
「見たらカンカンね」
お母さんは、そっと私の背中を摩った。
私は1週間仕事を休んで、仕事に戻った。山田と会う約束をしたのはさらに3週間経ってからだ。
下北沢駅にあるカフェは、今日も混んでいたけれど、運良く座ることができた。マグカップでホットコーヒーを注文。
30分程で、山田が店に入ってきた。
「待たせてごめんね。なんか買ってくるよ」
「それでもいいけど、実家でたくさんお菓子貰ったから、私の家でお茶しない?」
私はどんな顔をしていたのだろうか。
「うん」
山田の返事は子供のようだった。
山田にはメッセージでお父さんのことを伝えていた。予想通りだけど、私に気を遣っているのがわかる。いつも以上に優しい。山田はコーヒーの場所を確認すると、「淹れるから座ってて」と言う。ここ私の部屋なんだけど。
「実家に行った時もたくさん貰ったのに、先週たくさん送ってきたの。お父さんが好きだったお菓子。お母さんは食べないから勿体ないだって。よかったら食べて。持って帰ってもいいよ」
山田は神妙な面持ちで薄焼き煎餅を食べている。本当にこの人は真面目なんだなあ。
「冷蔵庫にビールあるから。飲みたかったら飲んでいいよ」
「うん、いや、大丈夫。最近は飲まないの?」
「あんまり飲んでないかな。少し飲んでから寝ることあるけど。お菓子もいっぱいあるし、最近はコーヒーが多いかも」
山田は私の話に頷きながら、お菓子をひたすら食べている。やっぱり子供のようで可笑しい。
「明日正平さんも仕事休みでしょ。このまま泊まって、下北沢でランチする?行ってみたいカレー屋さんがあるの」
山田は少し間を置いてから「うん」と返事。
「正平さんは今お腹減っているでしょ。冷凍庫に冷凍パスタあるよ」
山田の表情が緩んでいるのがわかった。
「なに?」
「いや、正平さんって呼んでくれたから」
単純な男だ。私が押せばどこまでも転がっていきそうだ。
電子レンジから、たらこパスタのいい匂い。私も食べようかな。やっぱりビール飲もう。
起きると、横に山田正平がいる。犬がリラックスして寝ている時のように、横向きでスヤスヤと寝ている。ずっと私の方を向いて寝ていたのだろうか。
カーテンの隙間からまだ暗いのがわかる。ベランダ前に座ると群青色の空が見えた。眠れないから、しばらく部屋の角で座っていると気が付けば空は露草色になっていた。
ベランダに出て空を見渡すと、白い月が見えた。どれくらい月を見ていたのか、正平さんがコーヒーを持ってきた。いつ起きたのだろうか。
「お父さんが亡くなった日の早朝に月を見ていたの」
正平さんは優しく「うん」と言った。正平さんの声は低いけど、穏やかで心が落ち着く。
「その時ね、黒い蝶が飛んで来たの。背中の蝶に誘われたのかなって思ったの」
正平さんの目が背中のタトゥーにいったのがわかった。正平さんの目は潤んでいた。
大事な記憶を人に話すのが怖かった。否定されることも、安易な同意も怖かった。でも正平さんには話したかった。
「その蝶がね」
そう言ってから言葉が詰まった。
「お父さんが会いに来てくれたんだね」
正平さんの迷いのない言葉に涙が溢れそうになった。だけど泣かないよ。
「ちゃんとお父さんに挨拶したい。仙台に行って手を合わせたい」
「何言ってるの?気が早すぎ!」
正平さんはやっぱり変わっている。
「正ちゃんはどれくらい私のこと好きなの?」
困っている。何困ってんの。
「大好きです。例えられないくらい」
そんなのわかってる。
「例えて!どれくらい?」
困ってる。即答してよ。
「宇宙より大きいです」
「馬鹿でしょ?!」
本当に馬鹿で、最高だ。
今日は快晴だ。ランチの後は、パンケーキ食べに行きたいな。
(了)
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