彼と彼女の話1

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彼と彼女の話1

「はい。ありがとうございます! そう言って頂けると…え? あ、はい。…いえ。はい。…はい。いえ、そんな。本当に良かったです」  ははは。と、楽しそうな声がオフィスに響いた。ここはある商社の一角、産業機械を扱う営業部署だった。 「はい。…はい。あ、そうなんですか? 良いですね。…え? 私もですか? …はい。ありがとうございます。じゃあ楽しみにしてます。はい。それでは失礼します」  笑顔でそう言って男は受話器を置いた。よし。何とか纏まったー。ふー。と、一息つく。その男の後ろで同僚はこそこそと内緒話をしていた。 「先生。本当にありがとうございました。お陰様で無事に治療できました」  ここは、この近辺では有名な小児歯科医院。ここに行けばどんな子でも治療を受けられるとママの間でもネットの口コミでも有名な歯科医院だ。 「また来るねー」  親の隣で笑う子どもの目線にあわせてしゃがむと、歯科衛生士である女はマスクをしている為、目だけでにっこりと笑って言った。 「本当によく頑張ったね。またぴかぴかのお口、見せに来てね」  その後ろで女の後輩はこそこそと内緒話をしていた。 「あいつは良いよなー。大口の顧客持ってるから数字は取れるし、その分ゆとり持って小口の客も相手にできるしさ」 「あそこの客先は厄介だって聞いてたのにガゼだったわ。俺が受ければ良かった」 「なー」 「大体、あいつの客先甘いところばっかりじゃね?」 「納期遅延しても不問にして貰えたりな」 「この前もミスしたって聞いたぞ」 「あー。運のいい奴には勝てねえや」  そんなことを話す男の同僚の横に指導役の先輩はいた。 「先輩、相変わらず仕事遅いよねー」 「何であれに三十分もかかる訳?」 「コスパ悪」 「あれでうちらよりも給料高いのかなー」 「解せぬ」 「地味だしさー」 「一緒の白衣着てても何か違うよねー」  あはは。と、笑う女の後輩の後ろに受付嬢はいた。  馬鹿言ってんじゃねえよ。と、先輩は思った。あいつらは本当に何も分かってない。前評判通り、あの客は滅茶苦茶厄介だ。うちで定期購買してもらえるようになるまでどれだけ大変だったことか。熱意も情熱もあるけれど、その分メーカーにも商社にも妥協を許さない。それでも予算は限りあるから何とかその中でやりくりするしかない。それを俺もその上の上司も何人も巻き込んで知恵を出し合って、メーカーにもそこの購買部門にも何度も足を運んで摺合せをしたあいつだけが信頼されていることを全く分かってない。あいつ以外にこの成績が残せると思うなよ。お前らが行ったら一瞬で終了だよ。まぁ、あいつはそういうところを見せないから、実際に関わった者にしか凄さは分からかないのもしれないけどさ。  納期遅延もあれだろ。メーカーの発送ミスの件だろ。それはあいつが取りに行って客先まで持って行ったから遅延してないし、客先も事情を把握してる。後日メーカーからわざわざ菓子折り持って担当者がやってきて、あいつが一番面食らっていたのに何も見えてないんだな。っていうか、お前らその菓子いの一番に食ってなかったか? 高級菓子だって燥いでたよな。  そういう事を何でもない顔をしてできる奴なんだよ。確かにたまにポカミスもするけど、小さなミスなんて気にならないくらいに信頼されているし可愛がられている。いすれ担当が変わる時が来るだろうけれど、後釜を誰にするか、まだ具体的にもなっていない今から上司に相談もされている。あいつじゃないと嫌だって感じの客が結構いるんだよなぁ。思い出したら頭が痛くなってきた。 「お先に失礼しまーす」  と、彼の声が聞こえてきた。残業する他の営業を尻目にさっさと退社する後輩に、また文句の止まらないその同僚達。そろそろどっかで指導しないとヤバいな。と、先輩は頭を抱えた。  お前らのまつエクは節穴を飾ってるのかよ。と、受付嬢は思った。びっくりする程何も見えてねぇな。と、カルテを仕舞いながらため息をつく。彼女は特に難しい子どもを受け持っているんだから時間がかかって当たり前。他の歯科医院で恐怖を植え付けられてしまったり、元々怖がりだったり、口の中に手を入れられることに抵抗がある子ども達。その子や親の話をじっくりと聞いて、様子を見ながら彼女は子どもを診ている。その彼女の仕事が子どもに負担の少ない優しい歯科医院だと評判なのに、同じ現場にいながらお前らは一体何を見てるんだ。  受付にいると分かるんだよ。一度彼女が担当したら、患者は次も絶対に彼女を指名する。どの衛生士もこんな感じなのかと一度離れる患者もいるけれど、次には必ず彼女に戻る。だから簡単そうな新規はうっかり彼女に回せない。曜日や時間にもよるけれど、もう一か月待ちとかが当たり前なくらいに指名がぎちぎちなのだ。そういう彼女を院長夫妻は大いに認めている。こういう歯科医院を作りたかったんだ。と酒の席で泣きながら言っていた。私に言ってどうするよ。と思ったけれども気持ちは分からんでもない。あとは自分が彼らの姪という事情もあるんだろうけれども。  そんな二人が、彼女が結婚でもして辞めるって言ったらどうしよう。と、常にビクビクおどおどしているのを受付嬢だけが知っている。後を育てようと指導しても、どう向き合うかは衛生士それぞれだ。彼女みたいな衛生士は、きっと人間性が伴わないと生まれない。同じ言葉を言って笑顔を見せても、目しか見えてない筈の衛生士の表情を子どもは理解している。「今日のお姉さん、何か怖かった」と、彼女から担当を変更した子どもが親に言っていたのを聞いた。目だけ笑っていればばれないと思っていてもばれる。そう気が付いてから自分も態度を改めた。彼女の様にはなれないけれど、せめてそれを見えないようにする態度を心掛けよう。言葉遣いも心の内も綺麗ではない自分だけど、意識したら明らかに相手の表情が変わった。彼女と違って自分は嘘かもしれない。けれどそれでもいい。仕事中の顔としては本当なんだから。もしかしたら彼女にもそういう嘘があるかもしれない。それを見せない彼女がここでは本当だ。  そもそもこの手の仕事中には地味で当然だろうに。何が悪いんだ。TPOって言葉を知らんのか。あの二人は。  それに飾れば彼女は化けるんだよ。以前に勤めていた助手の結婚式に二人で呼ばれた時、しっかりメイクをした彼女が実は滅茶苦茶華やかで美人なのも知っている受付嬢はそう思った。仕事に真摯で人に優しく、時と場合を弁えている優秀な衛生士。人としても女としても彼女はとても魅力的な人間だ。だからこそ叔父叔母が戦々恐々としている訳で。  その話をした事はないけれど、彼氏、いるんじゃねーかなー。と受付嬢は思っている。彼女に退職して欲しくはないけれど、退職をしたいと院長に伝えた時の顔を見たいとも思っている。口には出さずにそんな事を思っている自分が一番腹黒いかもね。にやり。と、受付嬢は笑った。
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