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雨が降れば
退屈な古典の授業中、僕はぼんやりと教師の目を盗んで窓の外を見ていた。サッカーをしていた別の学年の生徒たちが、蟻の群れのように連なって校舎の中に走っていく。雨が降ってきたのだ。ぽつぽつ、ではなく、ざあざあ、と。
僕は黒板を見る。教師は後ろを向いて、昔々の物語の一節を白いチョークで丁寧に書いていた。それを汚い字でノートに写しながら、僕は机の下でスマートフォンを操作する。メールの画面を開いて、短い文を打ち、宛先を選んで送信ボタンを押した。
ざあざあ、ごろごろ。雷まで鳴ってきて、教室の中で誰かが「きゃぁ」と悲鳴を上げた。このまま停電になれば、授業が中断になるかもしれないなと思った。けど、そんなに世の中は上手くいかない。雨は続いているけど、雷はどこか遠くに行ってしまった。
さっきメールで送った「迎えに来て」を昔風に書けば、どんな文になるんだろう。昔の人は馬とか牛で迎えに行ったのかな、なんて馬鹿なことを考えている間に、チャイムが鳴って窮屈な時間は終わった。
僕のスマートフォンが震えたのは、帰りのホームルームが終わって十五分ほどした頃だった。メールのものではない、長い振動に、僕は慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし」
『今、駅』
「分かった」
『門まで走れよ』
「うん」
僕の返事をちゃんと聞いているのか怪しいくらい、電話はすぐに切られた。僕は鞄を肩に掛けて立ち上がり、人がまばらになった教室から出た。駅からこの高校までは、だいたい歩いて二十分くらい。あの人は歩くのが早いから、もっと早く着くはずだ。僕は急いで階段を降りて下駄箱に向かい、もう履き潰れている上履きから、かろうじてまだツヤを保っているローファーに履き替えた。そして、屋根がある正面玄関で迎えを待つ。
「山口、今から帰るのか?」
僕は振り返る。そこには、担任の先生が首からタオルをぶら下げて立っていた。僕は小さく頷く。
「傘を忘れたので、お迎え待ちです」
「ほう、お母さんか? お父さんか? ご挨拶しておこう」
そう言って腕を組む先生に、僕は首を横に振った。
「両親じゃなくて、近所のお兄ちゃんです。星野先輩……ここの卒業生の……」
「星野!? もしかして、あの星野か?」
先生の目が丸くなる。
「あいつ、元気にしてるのか!?」
「ええ、たぶん……」
「たぶんってお前……そうか、星野か。お前ら知り合いだったんだな。あいつは濃い生徒だったから、記憶に残ってるよ」
僕は苦笑する。お兄ちゃんこと星野先輩は悪い意味で有名人だった、そうだ。僕が入学するのと同時に卒業しちゃったから、当時の素行は詳しくは知らない。けど、堂々と校則を破って茶髪にしたり、屋上にテントを持ち込んで一日の半分を過ごしたり……お兄ちゃんのお母さんが「また呼び出しよ」と何度か僕の母に愚痴っていたのを僕は知っている。 だから、一度だけ僕はお兄ちゃんに「高校で不良をやってるの?」と直接訊いたことがある。お兄ちゃんは、一瞬ぽかんとした後で小さく笑った。
「……そう、やってる。それが一番、生きやすいから」
そう言ってお兄ちゃんは、自分の茶色い髪を指で巻いた。
その瞬間、僕は彼に恋に落ちた。
不良に憧れたわけじゃない、ただなんとなく、僕は目の前の道化のような人に恋に落ちたのだった。
「あ、あいつ星野じゃないか?」
「え?」
透明のビニール傘が、早足でこっちに向かって近付いて来る。少しだけ猫背の金髪が、じっと僕を見つめながらこっちに来る。
「星野! 久しぶりだなぁ!」
「……げえっ」
テンション高く声を掛けた先生を見て、お兄ちゃんは露骨に顔を顰めた。白いシャツに黒い細身のパンツ、赤いスニーカーのお兄ちゃんは、この高校という場では浮いている。
「お前、覚えてるだろ? 二年の時の担任の……」
「……覚えてません」
「俺だよ! 俺!」
「……詐欺師ですか」
そう言いながら、お兄ちゃんは強く僕の手首を掴んだ。
「バイバイ、先生」
「おう! 元気でやれよ!」
軽く頭を下げたお兄ちゃんは、僕の肩を掴み、ぐいっと僕を傘の中に入れた。
「帰るぞ」
「う、うん」
僕は頷き、大人しく傘の中に収まった。自分で頼んでおきながら、お兄ちゃんとの距離が縮まって緊張する。僕は心臓の音が漏れたら恥ずかしいと思い、自分の声で誤魔化そうと口を開いた。
「先生と知り合いだったんだね」
「……あんな奴、知らん」
「でも、担任やってたって……」
「俺のテントを破壊したうえに没収した奴の顔なんか忘れた」
むすっとそう言うお兄ちゃんを見て、僕は苦笑する。テントの話、本当だったんだ。僕の口元が緩んでいるのに気付いたのか、お兄ちゃんは空いた手で僕のつむじをぐりぐりする。
「痛い!」
「お前があんなところで油売ってるから、再会することになったんだよ」
門まで走れ、と言われていたのを僕は思い出す。僕は慌てて謝罪した。
「ごめんなさい。かなり待った?」
「……別に待ってない」
ぶっきらぼうにお兄ちゃんは言う。
「門の前に立ってたら、ひそひそされたし」
「他の先生に?」
「女学生たち」
「モテモテじゃん」
「嬉しくない」
お兄ちゃんはそう言って、肩まで伸ばしている髪を掻いた。雨のどんよりとした空気に混じって、独特のシャンプーの香りがさまよう。僕はどうしようもなく、どきどきした。
「……お前、大学行くの?」
「え?」
突然のお兄ちゃんの言葉に、僕は首を傾げる。
「急にどうしたの?」
「気になっただけ。もう三年だろ?」
「そうだけど……」
僕は俯く。
「……親と先生は、国立に行けって」
「行けるだろ。お前の成績なら」
お兄ちゃんの発言に、僕はむっとした。
「僕の成績、知らないくせに」
「知ってる」
お兄ちゃんはにやりと笑う。
「お前のおばさんが喋ってた。今のままだと国立が狙えるって。学費が安いから助かるって言ってたのを聞いた」
おしゃべりオバハン……!
頭を抱える僕の肩を、お兄ちゃんは指でつんと突いた。
「良いじゃん。行けよ、国立」
「簡単に言わないでよ」
「何学部、狙ってんの?」
「……文学部。日本の文学が勉強したい。古典は……苦手だけど」
僕の言葉に、お兄ちゃんは目を丸くする。
「俺と同じか」
「うん」
「俺は私立だけどな」
「……関係無いよ」
僕はお兄ちゃんをちらりと見る。俺の大学を受けろよ、とは言ってくれない。お兄ちゃんに憧れて、日本の文学を学びたいと思ったのに。お兄ちゃんの居ない大学で、僕はちゃんと勉強が出来るのだろうか。
「……お兄ちゃんの大学、連れて行ってよ」
「俺の?」
僕は頷く。
「オープンキャンパス、行こうかなって」
「受けもしない大学の?」
「私立も念のために受けると思うから」
僕はお兄ちゃんを見る。彼は小さく唸った後で「まぁ……」と呟いた。
「夏休みだよな、オープンキャンパス」
「だいたい、そうだと思う」
「合宿と重ならなかったら案内してやるよ」
「合宿?」
「文芸部の合宿」
僕は驚く。お兄ちゃんは帰宅部だと思っていたから。
「合宿って、どんなことをするの?」
「詩を書いたり、短編を書いたり」
「お兄ちゃんの作品が見たいな」
「そんなの読むより、参考書を読め」
ざあざあ、と雨が足元を汚す。少し強くなった雨足に、ぐいっと強く肩を抱かれた。
「濡れる」
「あ……ありがとう」
透明のビニール傘に、水滴が流れている。ばら、ばら、ばら。もっと降ったら、もっとくっつく理由になるかな。もっと降ったら、いつまでも隣を歩けるかな。
「そういえば、なんでお前、今の高校にしたんだよ。もっと進学校行けただろ?」
お兄ちゃんが通っていた学校だから。それを正直に言うのは恥ずかしくて、僕は真実を口の中で転がした。
「……公立だし、家から近いし」
「ふぅん?」
「歩いて通えるのが良いよね」
そう。高校から家までは歩いて通える。雨が降っているなら、走ればなんとかなる。けど……。
僕は、わざと甘えている。
傘を忘れたと言えば迎えに来てくれる大好きな人に、僕はずっと甘えている。
「……明日も雨かな」
そう呟いた僕の言葉を、お兄ちゃんは拾った。
「もう梅雨だろ? 降るかもな」
お兄ちゃんは髪を掻き上げる。
「折りたたみ傘、鞄に入れておけよ」
「あ、うん……」
「明日は、迎えに来れないから」
ずきりと胸が痛んだ。そうだよね、雨を理由にこんなこと……いつまでも続けてはいけない。僕は自室で眠る黒い折りたたみ傘のことをぼんやりと思い出した。買ったのは、いつだったっけ。錆びていないと良いんだけどな。
「そんな一生の別れみたいな顔をするなよ」
「っ!」
ぐりぐりとつむじを押されて、僕は思考を自室から現実に移した。
「明日は、教習所に行くから迎えに来れないだけ」
「教習所?」
「そう」
お兄ちゃんは笑う。
「もうすぐ、車の免許ゲット出来る」
「車……」
そういえば、お兄ちゃんの家の前を通った時に、おばさんが近所の人と車がどうのこうのって話をしていたな……。
「まだ自分のは買えないから、おふくろの軽車を借りる予定」
「そうなんだ」
僕は思い出す。おばさんの車は薄いピンク色だ。それに乗っているお兄ちゃんを想像したら、なんだかちょっと可愛いと思った。
「試験、受かったらさ、雨の日は車で迎えに来てやるよ」
「え?」
突然の提案に僕は驚く。そんな僕の頭を、お兄ちゃんは優しい手つきで撫でた。
「だから、もうわざと傘を忘れなくてよろしい」
「っ……!」
僕は赤面した。なにもかも、バレバレだ。恥ずかしくて、お兄ちゃんを直視出来ない。
「……僕は、っ……」
「お前と雨の日に歩くの、楽しいけどさ、やっぱり車が便利だなと思って」
お兄ちゃんは笑う。
「ま、俺は近場で就職する予定だけど、移動手段に車は便利だとも思うし、寝坊したお前を大学に送り届けるのにも使えるし」
「ね、寝坊なんか……」
「ふふ」
お兄ちゃんは立ち止まり、少し屈んで僕と視線を合わせた。
「高校卒業したらさ、どこでも連れて行ってやるから」
「……どこでも?」
「そう、どこでも」
そんなの、まるでデートじゃないか。僕はそれを口にしようとした。けど、お兄ちゃんの人差し指がくちびるに押し付けられたことで言葉を飲みこむことしか出来なくなった。
「雨以外の日も、たくさん会おうな」
「……うん!」
雨が降れば、お兄ちゃんに会えた。
雨が降れば、隣に居られた。
でも、次からは——。
「……このビニール傘、欲しいな」
「コンビニで買ったやつだぞ?」
「それでも良いから、欲しい……」
僕の言葉を聞いて、お兄ちゃんは苦笑する。
「お前、どれだけ俺のこと好きなんだよ」
そう言いながら、お兄ちゃんは一瞬だけ僕の手に触れた。繋ぐのはいつ? きっと卒業したらオーケーだよね。
「お兄ちゃん」
「うん?」
「車……安全運転で、事故なんかはしないでね」
僕の言葉に、お兄ちゃんはふっと笑う。
「大事な命を乗せるんだから、任せろ」
深く頷くお兄ちゃんに、僕は微笑んだ。そして、少しだけお兄ちゃんの肩にもたれる。
雨の音。
傘の中はふたりだけの世界。
いつまでもこの中に居たいと思う心と、早く卒業したいという心がぶつかる。
そんな僕を察したのか、お兄ちゃんはいつもよりゆっくりと歩いてくれた。僕たちは今出来る最大のデートを味わう。民家の庭に咲いた紫陽花が、季節の流れを伝えていた。
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