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雨粒が地面に跳ね返る。
突然降り出した雨に、辺りは急に薄暗くなった。
まるで空が泣いているようだ。
夕方に近い時間帯だっただけに、雨の到来は日照に影響があった。
オフィス街の表通りから少し入った先に一軒のカフェがレストランがある。
煉瓦造りの壁には蔦が這った店舗で、看板にはリリアンブルームとあった。
店内はこじんまりとした広さだが清潔感があり、アンティーク調の家具や小物が飾られていた。
降り出した雨に、一人の女性従業員が窓から外の様子を伺う。
うら若いその横顔は、清潔感が漂い、どこか幼さを感じさせる。
目は大きく少し眠たげな表情をしていたが、瞳の奥には知的で優しい輝きを秘めているように見えた。
髪は長く艶やかで、肩より下まで伸びている黒髪を今は後ろで束ねている。
服装はシンプルなブラウスの上に紺色のカーディガンを着ており、膝丈まであるフレアスカートから覗く足先は、ストッキングに包まれていた。
女性の名前は華村葵。
葵はカフェ・リリアンブルームの従業員であり、今年24歳になる。
リリアンブルームは街にあるカフェレストランであり、葵はその店のウエイトレスをしている。
店内はアンティーク調の家具が置かれており、お洒落な雰囲気だった。
メニューにもこってりとしたものは少なく、女性向けの料理が多かった。
店の雰囲気も手伝ってか客層も女性が多く、カップルでの来店も珍しくなかった。
葵は雨が降り出したことを店長である女性・中村直美に伝えた。
40歳手前の直美は落ち着いた雰囲気の女性。
ウェーブがかかった茶色の長い髪と、同系色の大きな目が印象的だ。
体型はやや痩せ型だったが胸元は豊かであった。
そんな直美は窓の外を見ながら、葵の言葉に相槌を打った。
「お客さんが増えてくるわよ。覚悟しましょ」
そう言って直美は微笑むが、葵は気持ちを切り替えるように拳を握り、はっきりとした口調で返事をした。
ごく普通に考えた場合雨の日の客は少ないと思われる。
濡れるのが嫌だから。
傘を開けたり閉じたりが面倒。
単純にそういった理由があるからだ。
住宅街に近い店や目的性の低い店等は、雨の日に客が一人も来店されない日がある。
いわゆるノーゲス(ノオゲスト)だ。
これを回避する為に、リリアンブルームではデザート・ケーキの無料で提供するサービスを行っているのだが、これがヒットして今では平日休日問わず多くの客が訪れるようになった。
身体を濡れて入って来る客用にタオルを用意するサービスも行い、これも好評だ。
また、テーブル席の間隔を広く取ったり、BGMを流すなど工夫を重ねてきた。
それでも天候に左右されるのは仕方がないことだ。
しかし雨でも来てもらえるようになれば御の字なのだから。
今日は金曜日の夕方ということもあって、仕事帰りのOLの姿が目立つ。
もちろん恋人同士であろう男女の組み合わせも多く、窓際に座っているカップルは、これからどこに行くのか話し合っているようだった。
葵は店内を忙しく走り回り、直美は厨房で料理を作り続ける。
雨のせいで少し気温が低くなり、肌寒く感じる中、二人の額には汗が滲んでいた。
ディナータイムになるとさらに客が増える。
この時間が一番混み合うのだ。
ピークを迎えている最中、突然店内の照明が消えた。
葵は思わず声を上げた。
「え? 停電?」
そう言って、店の外を眺めるが、そこから見える景色には明かりがあり、停電している様子は無かった。
店内は客がざわめきだし、不安そうな表情を浮かべていた。
「お客様。少しお待ち下さい」
葵は、そう言って客を気遣うと、スマホのライトを点灯させて厨房に居る直美に声をかけた。
「店長。停電ではなく家のお店だけみたいですよ」
それを聞いた直美は困った様子をみせた。
「電気を使いすぎ? ということはブレーカーかしら。スタッフルームに、電盤があったハズだからみてみましょう」
二人は急ぎ足でスタッフルームに向かうと、葵は脚立を使って天井近くにある電番のカバーを開けるとスマホライトで照らしてみるが、ブレーカーは落ちていなかった。
「店長。ブレーカーは落ちていませんね。じゃあ何なんでしょう……」
すると直美は腕を組み考え込んだ。
「困ったわね。このままじゃ、お客様に迷惑を掛けるし……」
直美はオロオロとしながら、辺りを見渡した。
するとスマホのライトを点灯させて一人の男性が近付いてきた。
その男性は20代後半くらいだろうか。
細身で背が高く、眼鏡をかけた理知的な男性だ。
少し長めの髪をしていたが清潔感はあり、どこか上品な印象を受ける。
服装はシンプルなジャケットにシャツを合わせており、下はスラックスを履いていた。
男性は二人に近づくと口を開いた。
そして丁寧な口調で言う。
「どうされました?」
直美は少し慌てる。
直美は、この店のオーナーであり責任者でもある。
そのためトラブルが起きた時に対応しなければいけない立場にある。
「も、申し訳ありません。何か電気系統のトラブルが起きてしまったようで……ご迷惑をお掛けしています」
直美は頭を下げて謝罪するが、男性は首を横に振って答えた。
男性の言葉は穏やかだった。
とても優しい声で、まるで子供をあやすような感じだ。
男性は言う。
「そんなにかしこまらないでください。よければ僕が見てみましょうか?」
直美は男性の申し出を有り難く思い、すぐに承諾した。
直美は店の責任者ではあるが、こういった機械関係に関しては素人だ。
専門的な知識があるわけではない。
だからこそ素直にありがたいと思った。
「すみません」
葵は脚立から急いで降りようとしてバランスを崩した。
一瞬の浮遊感。
天井が遠く、床が近くなる。
落ちる!
葵がそう思った瞬間、身体に強い衝撃を感じた。
しかし痛みは無い。
恐る恐る目を開くと、目の前に先程の男性が葵を横抱きにするように立っていた。
男性は、しっかりと葵を抱きとめてくれていたのだ。
「す、すみません」
葵は驚きながらも礼を言う。
「いえ……」
男性は、そう言って微笑んだが、手に妙な違和感を覚えた。
それは葵もそうで、自分の胸を触っている感覚に驚いて視線を落とした。
葵は自分の胸をしっかりと掴んでいる手の存在を見た。
自分の手ではない。
これは……。
葵は顔を上げて男性の顔を見る。彼女は自分の顔が羞恥心で表情が歪むと共に、顔を真っ赤にして悲鳴が店内に響き渡る。
そして皮膚を引っ叩く音が聞こえてきた。
◆
店内の停電の原因は、漏電だった。
男性は漏電ブレーカーが落ちていることが分かると、店内のブレーカーを全て落とし一つ一つ上げていった。
そして、店外にある照明のブレーカーを入れた瞬間に漏電ブレーカーが落ちたことから、店外の照明が雨で漏電していることが分かったのだ。
対応として、原因となっている照明のブレーカーを落とし、店内の停電は解消されたのだ。
直美は、店内のお客様に対しお詫びを告げ、葵が店内のお客をさばいてくれたお陰で危機を脱した。
店内に客の影が無くなった頃になって、スタッフルームから男性が頬を濡れタオルで冷やしながら出てきた。
「あの。もう出てもよろしいですか?」
その男性は、店内の停電を解消してくれた人物だ。
いわば停電からお店を救ってくれた恩人ではあるが、葵は胸を掴まれたことから反射的に男性の顔をひっぱ叩いてしまったのだ。頬を赤く腫らした顔で店内に戻るのは、お店のイメージに関わってはいけないと思った男性は、客が引くまでの間、スタッフルームに居ることを申し出た。
直美は男性に駆け寄ると、深々と頭を下げる。
直美に続いて、葵も頭を深く下げた。
「申し訳ありません。私、お客様にとんでもないことを……」
葵は、本当に申し訳なさそうな声を出す。
それに対して、男性は穏やかな口調で言葉を返す。
「いえ。悪いのは僕の方です不可抗力とは云え女性の胸に手を触れてしまいました。どうか許してください」
そう言って男性は、再び頭を下げた。
葵は慌てて言った。
「違います。私の不注意のせいです。私が脚立の上でバランスを崩して落ちた時に、受け止めてくださったんです。それで手が当たってしまっただけで……」
そう言って、葵は初めて異性に鷲掴みにされたことを思い出したのか、耳まで赤く染め上げた。
「じゃあ。僕はこれで」
男性は、そういうとお会計をお願いした。
すると直美は、それを遮るように言う。
「とんでもない。お客様に助けて頂いたのに、失礼をしたのはこちらです。せめてものお礼に、お食事をご馳走させてください」
直美は必死に頭を下げる。
もし、この男性に食事の代金を支払ってもらったら、恩知らずもいいところだ。停電に対応できたのは、この男性のお陰なのだ。
「それとこれとは別ですよ。奥で美味しいものをごちそうして頂き、ありがとうございます」
男性はやんわりと断ると、直美は折れた。
そこで葵が口を挟んだ。
「では。せめて、私が叩いたことで歪んだ眼鏡のだけでも……」
葵が言いかけると、男性は首を横に振る。
そして穏やかに微笑んで言う。
「大丈夫。眼鏡は安物ですよ」
男性は、そう言って会計を済ませると、そのまま店を出て行った。
◆
男性は、また来てくれるものだと葵は思っていた。
だが、何日経っても男性は、喫茶店に姿を現すことはなかった。
葵はため息を漏らす。
「どうしたの?」
直美が訊くと、葵は答える。
「いえ。あの人来てくれませんね……。怒ってるんでしょうか?」
それを聞いた直美は、苦笑を浮かべながら答えた。
「私の人生経験から言えば、それは無いわね。恋しちゃった?」
直美は笑いながら言った。
それは冗談のつもりだった。
ところが、その言葉を聞いて、葵は顔を真っ赤にした。
直美は驚いたように目を見開いた。
まさかの図星だ。
葵は俯いて恥ずかしそうにしながら、小声で答えた。
「……はい」
葵の言葉に、直美は目を丸くした。
そして嬉しそうに笑う。
「なら。待つしか無いわね。そのうち、ひょっこり現れるかもしれないし」
直美の言葉に、葵は元気良く返事をした。
◆
それから、さらに一週間が経過した雨の日。
あの男性が店を訪れた。
葵は驚きつつも笑顔で接客する。
男性は、葵の顔を見て少しだけ照れ臭そうにしながら席に着いた。
「お久しぶりです。私、改めて謝らないと思っていました。本当にごめんなさい」
葵は深々と頭を下げる。
男性は、慌てる様子もなく穏やかに言った。
「いいんですよ。それより注文、よろしいですか?」
葵は顔を上げて笑顔で応じる。
そしてオーダーを取った。
男性の名前は、佐藤一也と言った。
葵はその名前をしっかりと心に刻み込んだ。
その後、二人は頻繁に会うようになった。
だが、一也は雨の日にしか現れない。
今年の梅雨は、梅雨入りをしたというのに、連日雨という日が少なかった。
そのため、葵は何度も肩透かしを食らうことになる。
「一也さん。どうして雨の日にならないと、お店に来てくれないんでしょう」
葵は不満げに口を尖らせた。
すると、そんな葵に対して、直美は言った。
それは意外なアドバイスだった。
直美はニヤリと笑って言う。その表情は悪戯っぽく見えた。
「葵ちゃん。今度、一也さんがお店に来たらデートしちゃったら。勤務中だけど外出させてあげるから」
直美の提案に、葵は顔を真っ赤にして否定したが、内心では喜んでいた。
◆
雨の降る日曜日。
葵は、いつものように喫茶店で働いていた。
すると一也が現れる。
一也のオーダーを取る前に、葵は一緒に出かけることを口にする。
「一也さん。一緒に眼鏡屋さんに行きませんか。一也さんの眼鏡、あの日以来ずっと歪んだままですから」
すると、それを聞いていた直美が割って入ってきた。
直美は、一也に話しかけた。
「佐藤さん。葵ちゃんと一緒にでかけてあげてくれませんか? この子、佐藤さんとの時間が欲しいみたいで……」
直美の言葉に、葵は頬を染める。
一也は、その言葉に少し照れながら応じた。
雨の中、葵は一也と二人で街に出かけた。
眼鏡屋で一也のフレームの歪みを治してもらう。
そして、葵は新しい眼鏡を一也にプレゼントした。
「受け取って下さい。私の気持ちです」
一也は申し訳なさそうにしていたが、やがて眼鏡を受け取った。
そして、その眼鏡をかける。
眼鏡をかけた一也の姿を見た瞬間、葵は自分の心臓が大きく高鳴ったことを感じた。
それが、やはり恋だと気付いたのだ。
帰り道に、二人は喫茶店でコーヒーを口にしていた。
窓の外では、雨が降り続いている。
「私、雨の日が嫌いでした。濡れますし、湿度が高くなって髪も上手く纏まらないし」
そう言って、葵は微笑む。
そして、自分の胸の内を告白した。
「でも。今は雨が好きです。一也さんと会えるから……」
葵は俯いて口にし、一也と少し見た。すると、そこには今までとは違った景色が広がっていた。
まるで違う世界にいるような感覚。
そして、それは一也にも伝わっていた。一也は少し困った様子を見せつつも、口を開いた。
「僕も、葵さんと会えるから雨の日が好きなんです」
葵は、その言葉を聞いて、嬉しさのあまり涙を浮かべた。
そして、この人と出逢えたことを神様に感謝した。
「一也さん。どうして雨の日にしか、お店に来てくれないんですか?」
葵は長い間思っていた疑問を口にした。
すると、一也は苦笑しながら答えた。
「光線過敏症というのを聞いたことがありますか?」
と。
【光線過敏症】
日光に当たることが引き金となって、皮膚のかゆみや赤み、発疹などが生じる病気。日光によって免疫系が過剰な反応を起こして症状が出ると考えられていることから、「日光アレルギー」とも呼ばれる。
日焼けは紫外線を浴びることで皮膚が赤く炎症を起こしたり黒くなったりする。ある程度強い日差しを浴びれば誰にでも生じるものだ。
一方、光線過敏症の場合、通常では反応が起きないような紫外線の量でも症状が出ることがある。
また、紫外線だけでなく、日光に含まれる可視光線で症状が出ることもある。どの程度の日差しを浴びたら皮膚症状が起きるかは個人差が大きいが、重度の場合は、屋内で窓から差し込む日光を浴びるだけで反応してしまうケースもある。
「僕は光線過敏症なんです。太陽の光を浴びると肌が炎症を起こす体質なんだ。あまりにも強い日差しだと命に関わることも」
一也の言葉に、葵は驚いたように目を見開いた。
それを聞いた葵は、ハッとした。
確かに、一也は梅雨を迎えた季節であるにも関わらず、長袖のシャツを着ていた。
葵は不思議に思っていたが、そのような理由があるとは知らなかった。彼女は、一也のことを何も知らない自分に嫌気が差した。
「僕の仕事はプログラマーだから外出する必要はないけれど、それでも太陽の下を歩くことは出来ないんだ。だから、雨の日じゃないとお店には行けない」
一也は寂しそうに続ける。
「僕は、太陽のある下を歩くことができない。そんな僕に葵さんを付き合わせることは、僕自信が許せない」
一也の言葉を聞いた葵は、悲しそうな表情を見せた。
彼は口にしたコーヒーカップをテーブルに置くと、手を自分に引き寄せる。葵は一也の手を掴んでいた。彼女の手は震えている。
葵は、一也の目を見つめて言った。
真剣な眼差しだ。
その瞳からは、一也に対する愛おしさが溢れ出しているように見えた。
葵は言う。
その言葉は、とても力強いものだった。
「構いません。雨の日にしか一緒に出かけられないなら、私は毎日雨になってもいい」
葵の言葉に、一也は呆気に取られた様子で固まってしまった。
そして、しばらくして我に返る。
そして、その言葉を噛み締めるようにして呟く。
「そんな。そんな不自然な生き方を、僕は葵さんに強要することはできないよ」
一也は言う。
しかし、葵は首を横に振って答える。
そして笑顔で言う。
それは、どこか吹っ切れたかのような清々しい笑顔だった。
葵は一也の手を握る手に力を込めた。
一也の体温を感じ取る。
葵は、一也の顔を見て言った。
その声は、とても優しかった。
「強要じゃありません。私が望んで選んだ人生です。一也さん。あなたと一緒ならば、どんな困難だって乗り越えられる。そんな風に思えてしまうんです」
一也は、その言葉に戸惑った。
だが、その表情はとても穏やかだった。
一也は言う。
その表情は、何かを決意したかのように見えた。
「僕は陽の光の下を歩けず、いつも一人だった。そんな僕の隣に、葵さんのような人が寄り添ってくれたら嬉しい」
一也は言う。
葵は笑顔で涙を流しながら、大きく何度もうなづいた。
一也は葵の手に自分の手を重ねていた。
二人は、いつまでも一緒にいることを決めたのだ。
外では雨が降りしきる。
雨は嫌われる。
明るく温かい日差しは、人々にとって必要不可欠なものなのだ。
しかし、葵にとっては、この雨が幸せの象徴に見えた。
雨よ降れ。
と。
~Fin~
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