"Stationery"

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 "Stationery"  隣の席の上の手帳の、白い表紙に書いてあった文字は、かろうじてそう読めた。  一筆書きのようにつながった文字、丸みを帯びた独特な筆記体。それは手帳それ自体のデザインではなく、明らかに後から手で書き加えられたものだった。細い黒ペンで、流れるようにさらさらとインクが奔るさまが、想像できるようだ。  大文字の"S"は、長いスカートを後ろになびかせた女性のようなシルエット。"t"の頭の部分がくるりと小さな輪になっていて、"n"の曲線が妙になまめかしく、お洒落なホテルのラウンジに置かれている大理石の椅子のようだった。"r"とつながった最後の"y"だけが妙にゆっくりと書かれていた。慎重に、プレゼントのリボンを結ぶように。 「なに?」  という声にはっとしたとき、その持ち主の指が、手帳の文字をかばうように置かれたところが見えた。あわてて顔をあげると、怪訝そうにわたしをじっと見る顔があった。 「あっあのっ、ごめん」 「人の手帳、じろじろ見るの、あんまりいい趣味じゃないよ」 「そのっ表紙の字、自分で書いたんだよね? すごくきれいでっあの、英語とか上手なのかなあって思って、だから……」  しどろもどろになるわたしに、隣の席の子は薄く微笑みながら答えた。 「ううん、これだけだよ。この文字だけ」 「え?」 「"Stationery"……この文字しか書けないよ。筆記体」  それが西原さんと最初にかわした会話だった。  西原文(さいはらあや)。少し癖のあるロングヘアと、伏し目がちな長いまつ毛のせいか、横顔のシルエットがすごく印象的だった。  背が高くて、すこし猫背で、近眼。ちょっと首を前に出して黒板を見ては、ノートに少しずつペンを走らせる。  その姿は、あの手帳の表紙に書かれた、筆記体の"S"にそっくりだった。 「"stationery(文房具)"ってさ、中に"station(駅)"が隠れてるでしょ」  西原さんは手帳の表紙の筆記体を、指でなぞりながらつぶやいた。 「なんでだと思う?」 「なんでなの?」 「もともとstationっていうのは、常設された、開かれた場所っていう意味があって、教会の隣で生活に必要なものを売っていたところのことで、それがいつの間にか、文房具を売る場所に変わっていって、stationで売られていたものを、stationeryっていうようになったんだって」 「じゃあ、電車とか馬は関係ないんだ」 「そう。stateとか、stayとか、そういう言葉と、語源は同じなの」 「へぇ」 「私、この単語が好きなの。いつも、そばにいてくれる感じがするから」 「だから手帳の表紙に、わざわざ?」 「筆記体で書けたら、かっこいいでしょ」 「うん。かっこいい」  西原さんは時々、その手帳を広げては、ボールペンで何かをメモしている。  授業中も、そうでなくても。数学の時間に居眠りをしていても、がばっとひとりでに顔をあげては手帳を開いて、ペン先をすべらせる。  何をメモしているのかはわからない。  さすがに、こっそりのぞき見るのは失礼だと思う。  わたしは手帳を持ち歩かないから、手帳というものをどう使うのかがわからない。何を書けばいいのか。  手帳にペンを走らせる西原さんは、笑っても怒ってもいない、でも、聴こえないくらいの小さな声で鼻歌を歌っているようなそんな表情で、それがまたすごくきれいだった。 「部活とか、やってるの?」  手帳を閉じ、しっかりと握りながら、西原さんがわたしに尋ねた。 「中学は陸上部だったよ」 「陸上って?」 「中距離」 「それってどのくらい?」 「1500m」 「なんで、中距離走を始めたの?」 「うちの中学は、部活が強制で、どこかの部には入らないといけなくて……走るだけなら道具とか揃えなくていいし、難しいルールとか覚えなくてもいいし、それに個人競技だから、周りに気を遣わなくてもいいし」  西原さんとは、それほど積極的におしゃべりするような仲ではなかった。  授業中も、休み時間も、昼食のときも、いつも隣にいるけど、だからって、特別仲がいいわけじゃない。  話しかけてくるのは、だいたい西原さんの方からだった。  わたしは、いつも、話しかけられるのを待っている。 「高校では、やらないの、陸上」 「やらない。もともと好きでやってたわけじゃないし」 「そうなんだ」 「……西原さんは? 何か部活、やるの?」 「どうしようかな。悩んでる。中学のころ、何もしてなかったし」  その日の会話はここまで。  朝会ったら「おはよう」と言い、帰るときは「それじゃあ」と言う、そのくらいの仲。ただ席が隣同士というだけの、それらしい関係。  時々、他のクラスメイトと話をしたりするときも、わたしと西原さんが、同じ輪にいることはない。  もっとも西原さんは、あまりクラスの輪に溶け込んでいるわけではなさそうだった。いつも自分の席で、音楽を聴いていたり、寝ていたりする。それで時々、あの手帳を開いて、何かを書いている。 「あっ、」  ある日の英語の時間、西原さんの机からからりとペンが落ちた。ノートやプリントには使わない、あの手帳専用にしている、細長い銀色のボールペンだ。  それは床を跳ねて、転がって、隣の席のわたしの足元にぶつかった。 「はい」  それを拾って、西原さんに差し出す。ペン先が相手に向かないように、いちおう、気を遣って。  西原さんは手元でさっと、広げていた手帳を閉じてから、右手を差しだしてペンを受け取った。 「ありがとう」  ペンを渡す瞬間、ほんの少しだけ、指先が触れ合った。西原さんの指先はあたたかくて、少し赤くなっていた。  それからしばらく、西原さんは授業に集中しているようなふりをしながら、時々またあの手帳を開いて、あのペンで何かを書いて、また閉じた。  何を書いているんだろう。  西原さんはぜんぜんこっちを見ない。黒板と手元しか見ていない。  ほんの少し、癖のあるうしろ髪が、滝壺に煙る水飛沫のように揺れていた。  閉じられた手帳の表紙の一文字目、筆記体の"S"にそっくりな姿。ずっと見ていたくなるほど、きれいに見えた。 「今、帰り?」  その日の放課後、正門の前で、たまたま西原さんにでくわした。 「うん」 「歩き?」 「電車」 「そうなんだ。よかったら、駅まで一緒に行こう」  西原さんは少し歩くのが速い。  置いていかれそうになってあわてて早足になり、西原さんは少し立ち止まって、ということが何度かあった。 「知ってる? そこの角、曲がった奥にね、小さい文房具屋さんがあってね。小さい頃から何か買うときは、いつもそこを使ってたの」 「あの手帳とペンも?」 「うん。あそこでしか売ってないんだ」  10分ほど歩けば、もう駅だ。  人が多い。特に、同じ制服の生徒が目立つ。まっすぐ歩くだけでも、ひと苦労だ。 「それじゃあ」 「うん。また明日」  わたしは定期券を取り出した。  西原さんはくるりときびすを返す。  すたすたと歩いていく西原さんの後ろ姿は、なぜか人混みの中でもよく見えた。  ちょっと左右に揺れるような、不思議な歩き方。  背が高いけど、小文字の"i"みたいだった。  次の日、席替えがあった。  わたしは窓際の、うしろの方の席になり、西原さんは近視が理由で前の方の席に割り振られた。隣同士ではなくなったうえ、間に座っている人の頭のせいで、授業中はほとんど西原さんの姿は見えない。  いつものように挨拶をしたり、何気ない会話をしたりということも、ぱたりとなくなった。そんなものだろう、席が隣同士というだけで、共通する趣味もないし、休日にいっしょにどこかに行くような仲にもなっていない。  ただ、あの横顔を見ることができないのは、名残惜しかった。ふと隣を見たときに、そこに西原さんがいないと、なんだかがっかりする。  ある日の放課後だった。  その日は、たまたま担任の先生に呼び出されていて、教室に戻った時には誰もいなかった。電気も消されていて、夕陽の赤だけが窓からぎらぎらと射し込んでいた。  西原さんの机のすぐそばに、何かが落ちていた。  何かはひと目で分かった。  表紙に筆記体で書かれた"Stationery"の文字。西原さんのあの手帳だった。表紙は閉じられているが、そこに置かれていたというような雰囲気でもない。たぶん、西原さんが落としてしまったのに気付かなくて、そのまま帰ってしまったのだろう。  放課後の校舎は静かだ。  グラウンドで威勢よく掛け声をあげる運動部の声が遠く響いてくる。  他には誰もいない。  わたしは少しためらいながらも、それを拾い上げた。  表紙は硬くて、さらさらとしている。あの筆記体の字は黒く、わずかにへこんでいて、夕陽に透かすと淡い光沢を帯びているようにも見える。  手に取ってみると、思ったよりも小さくて、驚くほど軽かった。  たたきつけるように、教室の扉が開いた。  肩で息をしながら、西原さんがわたしを見て、はっと目を見開いて固まった。 「はい」  わたしが手帳を差し出すと、西原さんは指先でつまむように受け取り、手帳を鞄の奥底にしまうと、しっかりとファスナーを閉じた。 「ありがとう」 「いつも、さ、何を書いてるの?」  わたしが思い切って尋ねると、西原さんはうつむいて答えた。 「別に……思ったことを、そのまま、書いてるだけ」 「日記……みたいなもの?」 「うん、書かないと忘れちゃうから。手帳なら、授業中に出してても、怪しまれないし。ぱっと思い浮かんだ面白い言葉とか、夢の内容とか、すぐに書かないと二度と思い出せなくなっちゃう」 「じゃあ、その中身を見れば、西原さんがどんなことを考えてるか、わかるってことだね」 「そう、だから絶対、誰にも見られたくない。恥ずかしいから」  ふいに、西原さんはわたしの顔をじっと見つめた。  真正面から西原さんの顔を見たのは、はじめてかもしれない。ちょっと目が大きくて、ちょっと癖毛になった独特なシルエット。 「見られたくないものなら、持ち歩かなきゃいいのに」  わたしの声は、自分で思っているよりぶっきらぼうで、そんなつもりで言ったんじゃないのに、と、もやっとした。 「また、落としたりしたら、大変でしょ」 「……そうだよね。ごめん」  西原さんは、少し肩をすくめてうなずいた。 「それじゃあ」  西原さんは駆け足で廊下の向こう側に消えていった。  わたしは、玄関で鉢合わせないように、少し待ってから教室を出た。  それから、またしばらく西原さんとは会話のない日々が続いた。だけど教室の片隅で、廊下で、駅への道で、ふと西原さんの姿を見ると、つい目で追ってしまう。  西原さんは、背筋をぴっと伸ばして、すたすたと、筆記体の"t"にそっくりな姿で歩く。何気なくぼんやりしているとき、目が"o"のように丸くなっている。  時々見せる横顔。  少し後ろにはねた癖毛と、立ち姿。  たまにしか聞かないのに、妙に印象に残る声。  話しかけようと思っても、何を話せばいいのか、分からない。  学校から駅へ続く大通りから、右手にそれて、住宅街の中の細い道。その奥の奥。突き当たりの十字路に面した場所に、確かにそれはあった。  少しくすんだガラスの扉の向こうには、色とりどりの手帳やノート、ペンが所狭しと並べられていて、まるでおしゃれなブティックのような魅力があった。  カラカラと引き戸を開くと、ふしぎな匂いがした。どこかで感じたことのある匂い。  わたし以外の客は、ひとりしかいなかった。  わたしと同じ制服で、いかにも学校帰りといった雰囲気の、あの横顔。 「西原さん、」  思い切って声をかけると、西原さんはゆっくりと顔を上げた。わたしを見ると、はっと、目を大きく見開いた。 「前に教えてくれた文房具屋って、ここ?」 「うん」 「ごめんね、いきなり、声かけて」 「ううん。びっくりした」  お店の中は静かだ。わたしたちの立てる音は、小さくても、よく通る。  ほんのわずかな息遣いや、衣擦れの音。たまたま手に取ったノートを、棚に戻すときの音。 「いつも、帰り、ここにいるの?」 「そういうわけじゃないよ」  西原さんとわたしの会話は、最初に会ったあの日よりも、ずっとぎこちなくなってしまったかのようだ。 「あの手帳、使い切っちゃったの」  最初、ひとり言かと思ったけど、西原さんは続けた。 「それで、新しいのを買いに来たんだけど、見つからなくて。あの手帳と、おんなじの」 「他の手帳じゃだめなの?」 「あれじゃなきゃだめ。ここにしか売ってないの、街の大きな文具店でも見つからなかったのに」  西原さんはとても悲しそうな顔をしていた。  わたしは店員さんに聞いてみようと言って、西原さんをレジに連れていった。店番をしていたのは白髪のおばあさんで、ぴっと伸びた背筋にえんじ色のエプロン、分厚いレンズの老眼鏡がきらりと光っていた。 「ごめんねえ、これはもう売ってないのよ」  くしゃりとしわが深くなった。 「ずいぶん昔に売られていたものでね、工場がつぶれてしまって、もう作ってないの」 「そう、ですか」  西原さんは茫然自失といった感じで、おばあさんから手帳を受け取り、鞄にしまい込んだ。 「残念だったね」  なぐさめるつもりでそう声をかけたのだけど、西原さんはうん、と少し笑った。 「新しい手帳、買わなくちゃ。どれがいいかなあ」  それから数十分ほどもかけて、西原さんはお店にある手帳という手帳をじっくりと吟味した。  手帳というのは、いろんな種類がある。表紙の色も、材質も。厚紙、布、皮、プラスチック。中の紙は白いか、クリーム色か。罫線は四角いのかそうでないのか、細いのか太いのか、時々ドット絵が打ってあるだけのものもある。当然無地のものもある。背はリング綴じか糸綴じなのか。知らなかった。どれも、ものを書くための道具には違いないのに、どうしてこんなに種類があるのだろう。  うつむき加減に、ページをめくったり、表紙を指先でなでたりする西原さんの横顔は、ちょうど、筆記体の"e"に似ていた。  ちょっと微笑んだように弧を描く唇がそう見せるのかもしれない。  だけど、あまりに真剣なので、声をかけるのもためらわれた。 「決めた。これにする」  西原さんはたっぷり一時間くらい悩んだあとに、思い切ったようにつぶやいて、たくさん並んだ手帳のうちのひとつを手に取った。  縦に細長いサイズ。ボール紙のような厚紙で綴じられた表紙。中身は白地にグレーの罫線が横に引かれただけの、シンプルな手帳だ。  前に使っていたものとは、白い表紙以外は、そんなに似ていないように思えた。  西原さんは早足にレジに向かう。  わたしは、西原さんが選んだものと同じ手帳を一冊、手に取った。驚くほど軽くて、雪で出来た板を持ち上げているようだった。 「おまたせ」  別に待たせていたわけでもないのに、西原さんは律儀にそう言った。手には、オレンジ色のテープで閉じられた紙袋が握られていた。  わたしは自分で手に持っていた手帳を売り場に戻して、ふたりで一緒にお店を出た。  陽が沈んで、外はすっかり暗くなっていた。 「よかったね。新しいの、買えて」  わたしが言うと、西原さんはうーん、と苦笑した。 「ほんとうは、あの手帳がよかったんだけど。もう売ってないなら、しょうがないよね。でも、こっちもかわいいから好き」 「古いやつ、どうするの?」 「とっておく」 「たまに、読み返したりするの?」 「たまにね」  会話は途切れがちだ。  信号で立ち止まると、気まずい沈黙が、わたしたちの間に流れる。  今だって、一緒に駅に行こう、とか、誘ったわけでもないのに、こうして並んで歩いている。  わたしは西原さんのなんでもない。  入学したときに、たまたま席が隣だっただけのクラスメイト。今ではその席も変わってしまっている。教室で顔を合わせても、軽い挨拶をするくらいの仲。  放課後に、一緒に帰るような、そんな深い友人関係じゃない。 「入学したばかりの頃さ、」  青信号になって歩き出したとき、西原さんが口火を切った。 「手帳の、表紙。褒めてくれたの、すごく、うれしかったの。"Stationery"の筆記体。誰に見せるつもりで書いたわけじゃないんだけど、でも、うれしかったんだよ。覚えてないかもしれないけど……」 「覚えてるよ」  忘れるわけがない。  あなたの声も、横顔も、淀みなく流れるあの筆記体のように、きれいだから。 「いっぱい練習したんだよ、ノートとかメモ帳とか、プリントの裏に。テストも、解けるところだけ解いて、あとはずっとその練習。いくら書いても、ぜんぜん、上手くならないし。筆記体の"r"とか、何あれって感じ、あんなの書かれてもぜったい読めない」 「どんなのだっけ」 「ほら、ここ」  西原さんは鞄から、あの日に使っていた白い手帳を取り出すと、"r"らしいところを指差した。 「これが?」 「そうなの、ぜんぜん違うでしょ。几帳面の『几』みたいな、この形。難しくて、何度書いても、うまく出来なかった。でも、この表紙に書いたときだけ、最高にびしっと決まってうれしかった、やり直しきかないから」 「そうだよね。一発書きだよね」 「そうなんだよ。ぜんぜん"r"じゃないし。それに、ここの"n"から"e"のラインとかね――」  そこで西原さんはふと言葉を切った。 「ごめん、ひとりでずっと喋っちゃって」 「えっ。そんなこと、」 「話を聞いてくれる相手がいると、舞い上がっちゃって。それで、わーっと、まくしたてるみたいに話しちゃうの。悪い癖でさ、席が隣だったときも、いつも、どうでもいい話ばっかりしちゃってさ、」 「そんなこと……ないよ、西原さんと話すの、楽しいよ。こうやって一緒に帰るのも。今日も、あの文房具屋さんに行ったら、西原さんがいるかなって思って、それで……」  と、口に出してみて、なんと薄っぺらい言葉なんだろうと思った。  席が離れたくらいで、ほとんど会話しなくなる、そんな人に何を言われても、きっと本心からの言葉だとは思えないだろう。 「ありがとう」  西原さんは目を伏せて笑った。  いつも伏し目がちなのが、西原さんの癖なのかもしれない。長いまつ毛が瞳にかかって、筆記体の流れるようなインクの奔りを思わせた。  ほんとうにきれいだ。  あの手帳の文字は、ほんとうに西原さんによって書かれたものなのだと思った。西原さんには、あの"Stationery"の文字が、たくさん隠れている。  もっと見つけたい。 「だから、また、ときどきでいいからさ……一緒に帰ったり、放課後にあの文房具屋さんに行ったり、そういうこと、しようよ。西原さんが、迷惑じゃなければ、だけど……」 「迷惑……じゃないよ、もちろん、いいよ」 「じゃあ、えっと、まず、スマホの連絡先とか、交換する?」 「うん」  西原さんは両手でもじもじとゆっくりスマホを操作して画面を表示した。わたしもそれほど慣れているわけじゃないけど、西原さんはわたしよりも圧倒的に遅かった。 「スマホ苦手?」 「うん。音楽聴くときしか使わない」 「スマホにメモできたら、いいのにね」 「それは違うよ」  西原さんはきっぱりと言い切った。 「手で書くから、いいの。書いたものが溜まっていくのが、好きなの。自分の思い出が、形になっていくのが」 「でも、いっぱい溜まっていくと、大変じゃない?」 「それがいいんだよ。溜まっていくのが」  なんとか連絡先を交換すると、わたしたちはまた少し歩いて、駅の改札口までやってきた。 「じゃあ、ここで」 「うん。また」 「またね」 「うん」  どうせ明日も会うのに、その日の別れはなんだか名残惜しかった。  その日の夜、スマホのメッセージは来なかった。 「見て」  次の日、西原さんは、買ったばかりの真新しい手帳をわたしに見せた。  表紙には、いつもの黒ペンとは違う、青いペンで、"Stationery"が書かれていた。 「すごく上手に書けたの。どう?」 「かわいいね」 「これ、一発書き。この"S"が、お気に入りなんだ」 「うん。わかるよ」 「わかる?」  流れるような"S"は、やっぱり、西原さんの姿をそのまま模しているようだった。この文字だけ、気合の入り方が違う。勢いよく、かつ丁寧に、ペン先が滑るさまが想像できる。  西原さんはさっそく手帳を開いて、何かをささっとメモしてまた閉じた。 「何書いたの?」 「ないしょ」 「気になるよ。目の前で書かれちゃうと」 「ごめんね」 「今度、読ませてよ」 「だめ」  西原さんはくすくす笑う。  きゅっと引き絞られた目は、"y"の字を思わせる。  わたしたちの関係は、あまり変わらない。  教室で会ったら挨拶をして、たまに帰り道が一緒になったら並んで歩き、時々寄り道して、あの文房具屋さんに行く、そのくらいの、普通のクラスメイトだ。  あの手帳の中に、どんなことが書いてあるのか。  西原さんをじっと見ていると、少しは分かる気がする。
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