東京 8

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東京 8

それからどうしたのかあまり記憶にない。とにかく歩いて歩いて、安い木賃宿を運良くみつけて二晩そこに泊まったけどそれ以上のお金もなく、仕事を探し尋ね歩いたけど、紹介者も身元引受人もおらず家も住所もないので門前払いばかりだった。それでも、しのが言ったように家に帰ったほうがましとは全く思えなかった。ここで野垂れ死んだとしても、どんな酷い目にあったとしても、あの家から嫁に行き、また別の家で飼い殺しにされるよりましだと思っていた。 ただ、ずっとあてもなく歩くのに疲れ橋のたもとで座り込んでしまう。橋の向こうから幼い子が両腕を前に差し出しながら駆けてくるのが視界にはいる。若い母親はそれを慌てて止めようとして子をつかもうとするのに子どもはキャッキャと笑いながら駆け出す。あんな風に幸せそうな笑顔で躊躇もなく怖いものもなく駆け出せるのは、怖いものを知らないからなのだ。大事に育てられ守ってくれるものがいつも側にいて、安心しきっている笑顔。その子の表情がやけに心に突き刺さる。幼い頃の私はあんな風だったのだろうか、いや、きっと違う。物心ついた時から、不安と怯えと、ここではないどこかに行きたいという気持ちしかなかったのだから。だから、今は、夢を叶えたのだ。あの家を出て、踏み出している。お金もなく住むところもなく、未来には何も約束されてないけど、この足で歩き続けて、いつかあんな笑顔で駆け出せるように。でも気持ちとは裏腹に、どうしても、私の足も腰も動かなくなっていた。立ち上がって歩き出さなければと思うのに、身体がどうしても言うことをきかない。どうしようもなくて、私はしばらく放心状態のようにその場に座り込んで行き交う人々の雑踏を眺めていた。 どこからか甘い匂いが漂う。橋の先に見える煮売屋の匂いだろうか、いとが鎌倉で煮てくれた煮豆を思い出してしまう。どうしても動けないでいると、一人の女性が声をかけてきた。お椀のようなものを抱えている。 「大丈夫?さっきからずっと座り込んだままだから気になってね。あんた、足をどうかしたのかい?」 私は首を振りながら女性を見上げる。立とうとして、でもやはり力がまるで入らない。 そして、その瞬間、私は意識を失った。
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