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木蓮屋敷 1
「人攫いが出る」という噂を聞いたのは秋の頃だった。働いていたマッチ工場での噂話だったが、それから時折その話題が蒸し返された。なんでも美しい女が娘っ子を攫うのだとか、洋装の紳士が隣町をうろついていたと思うと娘が三人姿を消したのだとか、怪しげな話がわたしの耳にまで入ってきた。その話をわたしはどう受け止めただろう。狭い長屋住まいで尋常小学校を出てすぐに近くのマッチ工場に働きに行かされているわたしにとって、その話はけして恐ろしくてたまらないものとも言えなかった。もちろん不気味さはあるものの、どこか惹かれる面すらあった。この倦むような、うんざりするような今の暮らしはいつまで続いて、わたしはいつまでここでこんな風に生きてそして死んでいくのだろうと思っていた。母が私を産む前に父は母を捨て、母はたった一人でわたしを育てたという。その事を何度聞かされ何度父への恨み言をぶつけられたか。数年前母は新しい男の人と親しくなり数年はその小父さんと一緒に暮らし、わたしには父の異なる弟妹が産まれたが、いつの間にか小父さんは帰って来なくなり、家賃を払えずそこを追い出された。今の朽ちかけたような長屋に移って3年になる。一番下の妹を産んで以来体調を壊した母はもはやろくに働きにでることもできず、家で籐の草履を編む内職をしている。わたしがわずかな賃金とはいえ働かなければ家族4人は行き倒れになるだけだ。でも、こんな暮らしいつまで続ければいいのだろう。人並みな縁談など来るとも思えず、なんの希望もなくただ無為に日々を過ごすだけだった。
ある日、工場長に残るように声をかけられた。何の話だろうと思ったがいい話とは思えなかった。首を切られるのだろうか、そうしたら次はどこで働き口を探したらいいのだろう。たちまち家は干上がってしまう。なんとか懇願したら思いとどまってもらえるだろうかなどと考えていると、引き戸が嫌な音をあげてゆっくりと開き、工場長がはいってきた。工場長に続いて、若く見たこともないくらい美しい女性が工場に入ってきて、不躾なほどじろじろとわたしを眺めた。目をそらしたかったのに、見とれてしまってそらそうにもそらせなかった。その彼女が工場長に小声で何かを囁くと、工場長は頷いた。何が話し合われたのかわたしには全くわからなかった。検討もつかなかった。
工場長もその若い女性もわたしには何も話そうとしなかった。ただ家まで着いてくるのだと、母に話があるのだとしか教えてくれなかった。わたしは何か言うこともできずただ言いなりのように、とぼとぼと共にわたしの住む三軒長屋までの道を歩いた。
あちこちに藤が吊るされ、光が遮られた薄暗い我が家で、母はいつものように草履を編んでいた。母は恐る恐る顔をあげ、わたしがなにか困ったことでも起こしたのかとでも思ってるような卑屈な顔で若い女性を見上げた。
彼女の声はやけに小声でわたしにまではよく聞こえなかったが、部屋の隅にいたわたしにも母が驚いている様子なのは感じられた。彼女が何かいうたび、母は動揺し、首を振り、拒否するかのような素振りだった。しかし、その女性が手にしていた風呂敷から何かを母に手渡したことですべてが変わった。それがわたしの人生の分岐点の一つだったと思う。わたしの人生なんて、わたしの都合で決められるものではなく彼女たちの手のひらの上にあったのだ。母の張り詰めた表情は一瞬にして和らぎ、またあの卑屈な表情が戻り、見たこともないような張り付いた笑みすら浮かべているように見えた。
彼女たちの間で、今日のこの日からわたしはこの家を出ていき、野崎家に奉公に出るという契約が交わされたのだった。わたしはただ与えられた運命に従うように、わずかな荷を作り、とぼとぼと女性に連れられて家を出た。母は悲しそうな顔を見せてはいた。妹と弟はきっと何もわかっていなかったのだろう、その時悲しかったのはきっとわたしだけだった。
野崎家のことはよくは知らない。お金持ちの名家だということをなんとなく知っているくらいだった。野崎家、九鬼家、峰家、このあたりがこの地方の有数の資産家として知られていた。その野崎家になぜわたしが行くことになったのか、その時のわたしはその理由を考える余裕もなく、ただただこれから訪れる人生の変化になんとかついていかなければ、どんなことをしても、野崎家でやっていけなければわたしには帰る家などないということだけはわかっていて、そのことしか考えられなかった。わたしは売られたのだ。
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