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そうだんへん
六月に殺人事件の依頼とは、珍しいな。
午前十時、僕はそんなことを考えながら、依頼人の女性の発言のひとつひとつを逃さぬように、メモ帳に書き留めていく――デジタル化の進む昨今で、もはや書籍でさえ電子書籍が主流だというのに、社会人と化した今でさえ筆記の能力がここまで必要になるとは、大学生のころは思いもしなかった。
相変わらずいつの間にか町を囲んでいる梅雨前線は町を灰色に濡らしている。午前にも関わらず日暮れどきくらい光量の少ないこの町のなかで、きっとこの喫茶店はよく目立つことだろう。そういう意味を踏まえれば、町の真ん中にほとんどガラス張りで仕立てたこの喫茶店の構造は、案外間違いでもないかもしれない。
もっとも、僕が今いるこの部屋は、正確には喫茶店ではなく、その喫茶店の二階にあたるのだけれど。
「夫と娘が、同じ部屋のなかで亡くなっていて……」
涙ながらに語る婦人の声以外には、僕の走らせるボールペンの音しか聞こえない。他に聴こえるものと言えば、防音の行き届いたこの部屋にさえ微かに入ってくるほどに強く降り続く雨滴の音くらいのものだ。
「なるほど、それはご愁傷様です」
と、メモを走らせながら決まり文句のように続ける。無感情に言ってしまっている自分が恐ろしい。けれど職業柄、他人の死には嫌というほど出会ってきた。今更、人の死にいちいち配慮するほうがわざとらしいかもしれない。
婦人は眼鏡を上げて、ハンカチでもう一度目元を拭う。年齢は五十から六十あたりだろう。上品な白の衣服には雨粒のひとつもかすめていないようで、ここまでは車でやってきたということが分かる。ともすれば、きっと喫茶店の前に路上駐車しているあの高級車が彼女の車だろう。
もし仮に彼女が運転手で、あの車を運転してきたのだとすれば、あの駐車の仕方だと、運転手が一度車道に出なくてはいけなくなる。ドアを開けて、傘をさすにしても、雨の一粒にも当たらないということは不可能だろう。翻って、助手席に座っていたのであれば、ひさしの出ている歩道にそのまま出ることができる。雨にあたる心配もない。
つまり、彼女はあの高級車の助手席に乗ってきた。
運転手が身内であれば、僕のところにもついてきただろうし、きっとあの車を運転していたのは、専属のドライバーだろう。
つまり、高級車を持ち、専属のドライバーを雇えるだけの財力。
この近くで言うと――鯨木家か。
僕はトントン、とメモ帳の端をボールペンで叩く。
「つまり、今回のご依頼は、その殺人事件の犯人特定、ということでよろしいでしょうか」
婦人は一瞬、呆気にとられたような顔でこちらを見ると、力なくうなずいた。
「はい……よろしくお願いします」
「了解しました。それでは、今一度、事件の詳細についてお聞かせください」
婦人はうなずくと、幾度か考えるようにうつむいて、それから、決めあぐねたセリフを押し出すようにして、このように続けた。
「殺されたのは、私の亭主と次女、すなわち、鯨木圭吾と鯨木寧子です」
僕はメモ帳に二人の名前を記す。
ビンゴ。
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