鯨木邸殺人事件

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鯨木邸殺人事件

 依頼人の名前は、鯨木恵美と言った。  被害者の名前は鯨木圭吾。 職業は画家。 と、ここまで来ればご存知の方もいらっしゃるかもしれない。「赤の使徒」の異名を持つほどに赤色を基調とした絵を描く作家で、最近では著名な小説の表紙を手掛けたり、自身のブランドを持っていたりと、方々で引っ張りだこの人気画家である。  全国各地で幾度となく展覧会を開催し、そのたびに入場券が即座に売り切れるという、前代未聞の画家だ。「赤世界象徴」というF100号作品はかなり有名で、海外のオークションでもかなりの高値が付けられたと聞く。  もうひとりの被害者の名前は鯨木寧子。  職業はスイマー。  競泳選手である。  恵美さんによれば、普段はスイミングスクールで講師をしているらしい。こちらに関して、ぼくの知りえる情報は少ない。畢竟、ぼくのような職種の人間に知られる情報なんて、少ないに越したことはないのだけれど。 年齢は、恵美さんによれば二十三歳。女性。未婚。 殺害当時、彼女に交際相手がいたのかは不明だそうだ。もっとも、彼女には事件の一週間ほど前に、男性との関係にトラブルがあったらしく、その愚痴をよくもらしていたという。 事件当時、鯨木家には、被害者も含めて、七人の人物がいた。 まず、さきほど紹介した、被害者の画家・鯨木圭吾、スイマー・鯨木寧子。  そして依頼人、鯨木恵美。  それらとは別に、長女、鯨木真子と、長男、鯨木拓海がいたという。 鯨木家は五人家族だった。 加えて、専属ドライバーの中留唯奈。  最後に、鯨木圭吾とかねてより交流のあった画商・三本沃野。  以上――被害者を除いた五人が、今回の事件の容疑者となる。これ以外に容疑者と言える人物はいない。  現場は、クローズドサークルと化していたのである――豪雨の影響で発生した土砂崩れによって、鯨木家につながる一本道は、ふたりの死亡推定時刻以前に閉ざされてしまっていたのだという。  それでは、事件当時の状況を振り返っていこう。  深夜、突如として鳴り響いた轟音によって、恵美さんの眠りは阻害された。眠い目をこすりながら、どうにか眼鏡を探しあてた恵美さんは、いつもであれば同じダブルベッドに眠っているはずの主人・圭吾さんがいなくなっていることに気付く。 『どこにいったのかしら……』  ひとまず、部屋の明かりを点けようと恵美さんはスイッチに手を伸ばしてみた。けれども、どうやら停電しているようで、部屋の明かりは一向に点かない。仕方がないので、恵美さんは緊急用にベッドのそばに置いていた懐中電灯を使って部屋の外へと出た。  するとそこで、画商・三本沃野さんとばったり出くわした。  どうやら、轟音によって目が覚めたのは恵美さんだけではなかったらしい。 『三本さん!』 『恵美さん、大丈夫ですか』 『ええ、私はなんともありませんが』 『さきほどの音は聞かれましたか、あれはきっと、土砂崩れの音ですよ。私も一度、子供のころに隣家が土砂崩れに巻き込まれたことがありまして』 『本当ですか! 実は、さきほどから主人の姿が見えなくて』 『ええっ』  焦ったふたりは、大急ぎで階段を駆け下りた。懐中電灯の光が闇夜を切り裂いていく。 二人の家中を駆けまわる音で、長女・真子と長男・拓海、遅れてドライバーの中留が起きてきた。しかしながら、いくら呼んでも圭吾と寧子だけが現れない。 『どこにいったのかしら……』 『寧子の部屋も空だったよ』 『ひょっとして、様子を見に外に出たんじゃ』 『縁起でもないこと言わないでください』  一同があれでもないこれでもないと思案しているとき、ふと長男の拓海がこう言った。 『そういえば父さん、三本さんに今度の展覧会用の新作を見せるって話、してたよね? 父さんはもう完成してるって言ってたけど、もしそれが嘘だったなら、今も作業のために、地下室にいるんじゃないかな』  地下室。  鯨木家には、鯨木圭吾のアトリエとしての地下室があった。  鯨木圭吾は、常に無音を好む傾向にあった。そのため、地下室そのものが遮音性の高い素材で構成され、室内の壁も、音を吸収する防音素材を取り入れていた。  なるほど確かに、圭吾が地下室にいるのであれば、あの轟音に気付かなかったとしても無理はない。五人は急いで地下室に繋がる床扉を開き、狭い階段を駆け下りた。  圭吾は地下室に、充電式の照明を持ち込んで作業をしている。そのため、なかに圭吾がいるのであれば、停電云々に関わらず、隙間から漏れ出る微かな光で、なかにいるかどうかが分かる。  そしてそのとき、光は微かに漏れ出していた。 『あなたっ!』 『圭吾くん、大丈夫かい!』  すぐさま五人は扉に駆け寄り、アトリエの扉を強く叩く。扉を開けようとするが、鍵がかかっているのかピクリともしない。 『とにかく、扉を開けよう』  三本と拓海が扉に体当たりを始める。そのあいだに、中留は倉庫に走り、てこを持ってきた。何度かの試行錯誤ののち、ようやく門扉の錠は破壊された。  そしてアトリエに入った五人は、絶句することになる。 『そ、そんな……』  アトリエ。  地下室のなか。  照明の白によって、まぶしすぎるほどに照らされた部屋のなか。  巨大で真っ赤な――絵画。  よりも、一層。 赤く、赤く濡れた――ふたりの死体。 『そんな……!』  ここで僕からもう少し、現場状況について解説しよう。  アトリエのなかには、圭吾さんと寧子さんの刺殺体が転がっていた。圭吾さんは胸と腹の二か所を刺され、寧子さんは背中から心臓を一突きにされている。アトリエの鍵は圭吾さんが握っていた。すでに死後硬直が始まっていたため、あとからやってきた誰かが圭吾さんの手に滑りこませたということはもちろんない。  地下室の扉の鍵は基本的な構造をしていて、縦になっているつまみをひねって横にすることで錠が下りるタイプのものである。防音加工のために、「隙間と糸」式の方法では密室を構築できない。  アトリエは、確かに――密室だった。
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