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彼もわたしと同じくこの喫茶店の常連で、いつも一人で来店して、お気に入りらしいカウンター席の奥から四番目、角の席に座って、静かに小説を読んでいるのをよく見かける。
年齢はわたしと同じか、少し上だろうか。落ち着いた雰囲気で線の細い、喫茶店がよく似合う雰囲気の男の人。名前も、どこの学校に通っているかも――そもそも、学生なんだろうか?――どこに住んでいるのかも。わたしは彼について何も知らない。
なにせ、わたしは彼と一度も話したことがないから。
声を聞いたのだって、いつもコーヒーを注文するのを傍から聞いていた程度。クラスの騒がしい男子たちよりは少し高くて、よく通る声だった。
あ、彼がコーヒーを飲む時、必ずミルクと砂糖をたっぷりめに入れるのは知ってる。甘党なのかな。
そんな彼に対して、なぜわたしが落ち着かないかと言うと、
その、えっと、こういう言い方は俗っぽいと言うか、軽薄な人間に思われそうなのであまり好きじゃないんだけど、まあ、言ってしまえば一目惚れ、みたいなもの。
きっかけは、ある日、今日と同じように席に座っている彼の後ろを通ろうとした時、目に入った彼が読んでいる小説が、わたしの好きな作者さんのものだったから。
本当はその時に声をかけてみればよかったんだろうだけど、人見知りを絵に描いたようなわたしに、何かしらの強制力もなく初対面の人間に話しかけるなんて大それた真似ができるはずもなくて。
それ以来、この店で彼を見かけては、今日は何を読んでいるんだろう? 話してみたいなあ、なんて悶々とするだけの時間を過ごしている。
もしかしたら、共通の趣味を持つ同士と話してみたいだけで、恋愛感情とは少し違うのかもしれない。でも、愛美に話してみたら、恋愛に決まってるじゃん。男と女で友情なんてあるはず無いんだから。とさも当然かのように軽く返されてしまった。
そして今日、わたしはある決心をしてここに居る。
今日こそ、彼に話しかける。
そのために、遠慮知らずで、人見知りなんて言葉は辞書に載っていないようなめぐみに頼み込んで、秘策も授かってきた。
わたしは傍に置いた鞄から顔を覗かせる、ビニールのカバーを剥いだばかりの紺色の折り畳み傘を、存在を確認するようにちらりと見た。
これが、わたしの秘策。
きっと、わたしが彼に話しかけられないのは、きっかけが無いからだ。
誰だって急に初対面の人に話しかけられるなんて、不審に思うに決まっている。わたしなら変な声で驚いて逃げてしまうかもしれない。
そのきっかけ作りのための折り畳み傘。
彼は雨が降りそうな曇り空の日でも傘を持ってきておらず、雨の中を困り顔で走って帰るのを何度も見ている。今日だって、喫茶店入り口の傘立てには誰の傘も置いていなかった。
天気予報によればこの後、確実に雨は降るらしい。
今日も今日とて傘を持ってきていない彼はいつものように困ってしまうだろう。そんな時、わたしが傘を甲斐甲斐しく差し出せば、彼に不審がられることもなく、容易に話すことが出来る。
という作戦だ。
めぐみからも、
『まあ、良いんじゃない。わたしだったら知らない人から傘なんて借りないけど、わたしはその彼じゃないから。その人が優しい人だったら成功するんじゃないかな。うん。とりあえず、当たって砕けてみなよ』
と若干の不安要素はありながらも、お墨付きをもらっている。
準備は万端。後は、雨が降るのを待つだけ。
耳触りの良いアップテンポのピアノの曲に耳を傾け、小説を読みながら雨が降るのを待つ。
不審に思われないように澄ましては居るが、内心はドキドキしっぱなしで文字なんて頭に入ってこない。音楽だって耳に入っているが、自分の鼓動のほうがよっぽど五月蝿い。緊張で手足の先が小さく震えて、背中に汗が滲んでいるのを感じる。
早く、降ってきてよ。お願いだから。
いつ雨が降り出してもおかしくない、灰色で分厚い雲を見上げながらわたしは願う。早く雨が降ってくれないと、彼が帰ってしまうかもしれない。いつまで続くのか分からない拷問のような緊張で、もどかしくて、もどかしくて叫びだしてしまいそう。
何曲目のピアノを聞き終えたのか、もう今日は神様も諦めろって言ってるんだ、と自分に言い訳をして帰ろうとした頃、ようやく雨粒が地面にポツポツと染みを作り始めた。
わたしは心の中ガッツポーズをした。これで条件が整った。
カウンター席に座った彼の様子をちらりと窺う。彼は雨の様子を気にするように体をこちらに向けて窓の外を見ていた。一瞬、視線が合いそうになって、わたしはすぐに顔を背けた。
違う。逃げちゃ駄目。話しかけなくちゃ。
気合を入れて目に入った傘を掴んで立ち上がろうとしたのに、彼の方へと振り向くことができなくなった。
もし、傘を貸そうとして嫌がられたらどうしよう。それに、やっぱり、めぐみの言う通り、話したことのない人が急に傘を貸してくるなんて、気持ち悪いかも。
不安がむくむくと膨れ上がってくる。それとは対称的に、わたしの何の根拠もなかった自信は口を開いた風船のようにしおしおと萎えてしまう。
どうしよう。今日は中止にしようか。
後ろ向きになってしまったわたしの心は、饒舌に自己弁護を始める。
いつもいる彼に嫌われたら、もうこのお気に入りの喫茶店に来れなくなってしまうから。
それに、彼だって、わたしみたいな陰気な女とは話したくないだろうし。
誤魔化しと肯定で、後ろ向きな自分を納得させるために。
自信満々に準備してきたのを彼に知られるのも嫌で、傘が見つからないようにこっそりと鞄の口を閉じる。そもそも、彼はわたしの思惑なんて少しも知らないだろうに。
鞄の口を、強く、強く、閉じる。
「雨、降ってきましたね」
「ふぇっ?」
突然背後から声をかけられて、わたしは妙に甲高い音で返事かどうかも覚束無い声を出した。
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