はじめ

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はじめ

景色に心を奪われたのは、それが初めてだった。 今まで住んでいたところが海辺の町だったから、目の前に山が迫ってくるようなこの土地にひどく驚いたのはもう何年も前のことだ。 どこまでも広がる青空の地平を眺めていた町から、空を圧迫するような山が連なる町へ越してきた。 その時の印象で中学生の時に読んだ国語の便覧に載っていた俳句を思い出した。俳句の概念を壊すような、人の心を去り際に奪っていくようなそんな句だったように覚えている。 引っ越しの理由は両親の離婚。父が若い女にでも引っかかってくれていた方がまだましな別れ方だったと後に母は語った。思春期真っ盛りの自分にはまだ早い話だと思われていたんだろう。でも、その理由はまだ聞いていない。 わずかな貯金と少しの家財道具を抱えていくつも電車を乗り継いでこの町にやってきた。 家々がまばらに散って、隣の家に行くのも自転車で5分はかかるような田舎町。町というのもおこがましいくらいだ。 土地をたくさん持っているイコール金持ちというわけでもなくサスティナブルな概念よろしくなんでも使いまわすような土地柄で、親戚がおさがりのおさがりのおさがりに当たるようなもはや文化財レベルの古着を持ってきてくれる。 俺と年は変わらないはずなのに、身長差が20cmはある兵馬はその時に出会った。母方の祖父母の弟の嫁さんの伯父さんの孫だとか、血が繋がってんのかいないのか分からないが、あまり同年代の子どもがいなかったらしく兵馬はしょっちゅううちに遊びに来ていた。遊んでいる最中に俺用に持ってきたおさがりは兵馬の小学生時代のものだったと知らされたときは一週間口を利かなかったのも懐かしい思い出だ。 危険だから子どもだけで山に入ってはいけないと言われていたので、いつも兵馬と一緒に山の麓で遊んでいた。上を見上げるとどこまでもどこまでも吸い込まれそうな青い山が見えるのにそこに行くことができないもどかしさがいつも頭の片隅にあった。よく見ても見なくても、山の色は緑色と茶色で、秋になれば黄色にもなるし赤にもなる。なんで青なんて言葉が思いつくんだろう。と思っていたら、遠くに見える山ほど青くかすんで見えるということを兵馬に教えてもらった。どこまでも山脈が続くところじゃないと見られない景色だ。 海の青とはまた違う青。どちらが好きかと問われてもどっちも全くの別物なので比べようがない。どっちも良くて、どっちも好きだった。 今では、青い山を見上げている時期のほうが長くなった。その後俺は大学へは行かず、町役場の職員になっておっちゃんやおばちゃんたちの愚痴に付き合って仕事とも言えないゆるい仕事を選んだ。母親は引っ越してきたときは農協のパートだったが、もともとバリバリ働いていた名残なのかどんどん責任のある仕事を任されるようになって、パートのおばちゃんたちをまとめ上げるようになった。離縁で出戻りしてきた負い目はあっという間に農協のボスという立場に代わった。 兵馬は、家業を受け継いで米を作っている。子どもの時から一緒の犬の花子は子どもを産んで育てて虹の橋を渡った。花子の子どものモンとブランの名付け親は兵馬の弟で世話を見ている飼い主という。 小さな町では、噂話は勝手に足が生えて人々の間を走り回る。本人が気が付かない間に上司の奥さんが知っていることもある。それが煩わしいという人間はとっとと町を出た。そのため高校の同級生はほとんど都市部に出ていった。俺に関する噂話も。俺のあずかり知らぬところで聞いた。いつまでも嫁を貰わないのは兵馬といつもつるんでいるからだとか、宅配便で人には言えないようなものを買っているだとか、余計なお世話なことばかりだ。 俺は、そのまま町に残っている。出ようと考えたこともないことはなかった。でも残った。 その理由は、
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