第6章 わるい夢

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「…ごめん、高橋くん。やっぱりあれ、夢の中の話だったと思う。わたしの思い込み…」 「…なんだ」 もっと鬼の首でも取ったようにここぞとばかりにからかってくるかと思ったけど。やっぱりなぁ、サルーンに勧誘されたなんて純架の思い込みだったろ?とも言わずに彼はそこでやや力が抜けたように笑った。 どちらかと言えばそれよりわたしの今の反応が心配みたい。気がかりそうに、少し眉の辺りを曇らせてそれで話を終わらせようとせずに再びがらがらと台車を押しながら尋ねてくる。 「でも、ついでになんか嫌なことでも思い出しちゃったんじゃないの?実は研修中にサルーンで何かあった?これまでずっと忘れた気になってたのが。今になってわっと記憶に甦ってきた、とかさ」 「ううん」 ようやく冷静さを取り戻したわたしは、耳を赤くしたり顔を青くしたりしながらしどろもどろに言い繕う。 「そんなことは別になかったと思う。…ただ、そんな会話を聞いたなぁってずっとうっすら思い込んでただけ…。この子を是非サルーンに入れよう、って声とこの子は絶対に無理って反論する声。そんな言い合いを耳にしたって覚えがあったんだけど。…でも、今わかった。あれ、現実の話じゃなかった。単に夢の記憶だと思う、わたしの」 だって。 足許に目線を落としてよっこいしょ、とかわざとらしく呟きながら大きめの石を避けて進む。 …だって、あれが現実であったはずがないって証拠が。ちゃんといくつかは思い当たる。 まず、記憶が完全に声だけで構成されてること。わたしがそこに本当に居合わせてやり取りをこの耳で聞いていたんなら。 その場面の情景がちゃんと記憶の中に焼きついているはずだ。会話を交わしてる二人の顔を見たって印象が全くない。録音データを流してるみたいに、本当にただ音声だけ。それって…、不自然。 あとは、二人の声だ。 多分女性の方の声は、漠然と覚えてるサルーンのママのものだと思う。婀娜っぽくて大人っぽくて、有能さが滲み出てて。普段のわたしの生活の中で耳にするタイプの話し方じゃないから、深い意識の奥にきっと特に印象強く残ったんだと思う。 一方で、その会話の相手たる年配の男性らしき声。 わたしがあれは夢だった、と断じる理由はそっちのせいだ。つまり、本当に現実にあったことなら。その声の主が誰だかわからない、なんてことは起こり得るわけがない。 集落の中の住人の全員の声を、ちょっと聞いただけで誰だか瞬時にわかる。なんて言い張るつもりはない。だけど全く聞き覚えのない、誰だかさっぱり見当のつかない声っていうのも。それはそれで考えにくい。 二百五十人前後の住人のうちには、ごく口数の少ない人物や大人しくて前に出てこない人、他人と接するのが得意じゃない人がやはり何人か含まれる。そういう特性のある人が話すのを聞く機会は少ないから、ぱっとどんな声だっけ?と頭に浮かばない相手だっていないことはない。けど、あの話し手の口振りからすると。そういう風に表に滅多に出てこないタイプの人物って感じがしない。 つまり、何が言いたいかというと。本当にああいう喋り方で遠慮なくママとやり取りをするような人なら。これまでわたしが全くその声を聞いた覚えがない、なんてこと。あり得るんだろうか?って話なんだよな。 どう考えても村長並にがんがん前に出てくるタイプの人しか思い浮かばない。それでいて声に聞き覚えがない、ってのはおかしい。つまりあれは、実在の人物じゃないんだ。 おそらくはTVで放送されてたドラマか映画なんかから、その声を耳が拾ってきて無意識に脳内で会話を構成してやり取りを作り上げたんだろう。 …そこまで考えて、また耳がぼっ。と火がついたように赤くなる。慌てて顔を頭上に向けて目線を逸らし、髪を弄る真似をしてさり気なく腕で耳を覆った。 そうやって耳の色の変化が隣を歩く高橋くんの目に留まらないように何とかごまかす。 …だって、だとしたら。あの会話は元ネタもないのにわたしが自分の脳内で勝手に作り上げたものってことになるし。 サルーンに相応しいと言われた、是非ここで働かせようと提案された。そのことを無意識に捏造したことが恥ずかしいとかじゃない。 そうじゃなくて。…どうやら全てわたしの頭の中で作り上げられたやり取りに過ぎなかった、って判明したその夢は。申し開きも不可能なくらいにはっきりと、性的な。完全な処女が普通思い浮かべそうもないくらいにありありとリアルな、いやらしいものだったから…。 今でも覚えている、おそらくは二度と足を踏み入れることはないサルーンの建物。 それは技術部や倉庫とほど近い、集落の中心からずっと遠くに離れた普段は人通りの少ないエリアにあった。というか、建物は一応建物だけど。 それは崖にぴったりくっついて建っていて、半分岩壁の中に造り付けられた状態だったので。表から見ただけでは全体の規模の全容がどれだけなのか、判別がつかない代物だった。 中に入って思ったのは、外から見るよりだいぶ奥行きが深いってこと。建物の前面の崖から飛び出してる部分、その上階は窓もあって周囲の林の梢越しだけどちゃんと陽の光も入ってくる。
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