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事の真相
*
「そのチョコレートケーキの事を教えて下さい。」
「構いませんよ。…奥様が思い出せなくてお困りなのでしょう?」
そんな所です、と辰実は答える。店主は乾いたグラスを片付けた後、右の人差し指で丸眼鏡を整えた。
「内緒にして頂きたいのですが、あれは私がこっそり作ったものだったんです。…だからメニューにも載っていないんですよ。」
話を聞きながら、辰実は愛結のためにケーキを作ろうとして頓挫した事を思い出す。生地の用意から焼くまで、時間が異様にかかる感覚にハードルの高さを感じた。勿論、一度超えてしまえばどうという事は無い。
「ベーキングパウダー150gにココアパウダー大さじ3杯、グラニュー糖12gと牛乳100cc、ビターチョコ2枚に卵1個。これらを全部混ぜて炊飯器に流し込み、スイッチを入れてしまえばあとは昼寝している間に完成します。時間は結構かかりますが、手順は至って楽でしょう。」
(これなら、俺にも作れそうだ。)
「ありがとうございます。」
感謝の言葉で乾いた口を、カクテルで潤す。氷とともに汗をかいている途中のグラスに注がれた一口は、上品な紅茶の味がする。少なくとも辰実の感覚ではそうだった。
「…そう言えば倉田さんが言ってました。10年以上も前の事なので正確に一言一句を覚えていませんが。」
「何を言っていたんですか?」
「我儘もロクに聞いてやれず仕事ばかりで娘に構ってやれない父の事を、娘は忘れてしまうだろう。けれどもし、そんな娘の事を大切に思ってくれる人がいたなら、その彼が父の事を思い出させてくれる。…みたいな事を言ってました。」
義父は、愛結がどういう性格だったのか分かっていたのだろう。図らずも彼の思惑通りになってしまったものの、辰実はこれを「義理の息子になる男がどういう人物なのか知りたい」という彼の好奇心ではないかと勘繰ってしまう。
「会話をした事はありませんが、初めて義父と話をできたような気がしました。」
「本当に、よくできてます。」
辰実は2杯目のロングアイランドアイスティーを頼む。ふと甘い物が食べたくなって、バニラアイスも一緒に注文すれば、手早く店主は用意してくれた。
「しかし、美味しいですねコレ。しっかり紅茶の味もする。」
「ロングアイランドアイスティーですか。…実はそれ紅茶を使ってないんですよ、なのに紅茶の上品な味がすると言う不思議な話ですよね。」
ウォッカ、ジン、ラム、テキーラ等を使い、紅茶の味を再現したカクテルである。言われなければ紅茶が入っていないのも分からない。
「驚きましたね、でも本当は紅茶の味なんて分からないんです。」
「そうでしたか、実は私もなのですよ。」
辰実が恥ずかしそうに言った途端、店主は大笑いする。
「本当に、よくできてます。」
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