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「あんまり覚えてないの、パパの事は。いない時間の方が長かったから。」 日本人の父と、日本人とフランス人との間に生まれた母。彼女はいわゆるクオーターなのだが、波がかった長い髪は栗色で瞳は青い。少し俯いたつぶらな瞳が、まだ続く湿気た夏の終わりを教えてくれないでいる。 実父の事をあまり話さない愛結がそんな事を言っていたのは、双子の娘が産まれて半月程。薄く引き延ばされたテレビの向こうで「梅雨が明けましたよ」と呑気にキャスターが言っていた時の事であった。夫の辰実からすれば義理の父になる、しかしその男の話をされてもピンと来ない。 それもその筈、愛結の父は彼女が中学生の時に亡くなっている。 替えたばかりのエアコンを点けたリビングは涼しく、機械の音が夫婦の会話を邪魔しない。さっきまで何かを訴えるように泣いていた娘2人も、今はベッドで2人揃って静かに寝息を立てていた。 亡くなってからの時間が長い父の事など、愛結にとっては実際どうでも良いのだろう。なのにふとそんな話をするという事は、女手1つで彼女を育ててくれた実母に「たまにはパパのお墓参りでも行ってきなさい」言われ素直に行ってきたのだろう。娘が産まれたくらいの報告はしてきたのかもしれない。 「義父さんの事は、俺は実際に会った事がないから分からないんだが。どういう人だったんだ?」 「真面目な人。仕事ばっかりしてたわ。」 銀行員だったという話は、辰実は義理の母から聞いていた。愛結が中学生の時に癌が発覚し、そのまま亡くなってしまったという話もその時に聞いている。朝から晩まで仕事に仕事を重ね、帰ってくるのは愛結が寝静まった後で家を出るのは愛結が起きる前。 愛する1人娘と接する時間が無く、仕事に追われ続けその生涯を閉じてしまった悔しさの裏には、愛結が生まれた年に崩壊してしまったバブル経済の影響もあるのだろう。そんな事を思えば、娘のために体を張って不景気と戦い続けた1人の父親の姿に、なりたての父親は敬意を持った。 ただ敬意を持つ事ができないとすれば2つ、愛結にこうやってまともに覚えてもらえていない事と美しく成長した娘の姿を見る前に死んでしまった事であった。 後者をどうして辰実が思ったのか? それは今この場で面と向かい話をする事ができない辰実の悔しい気持ちに他ならない。 「思い出って言われたら…」 冷やしたアールグレイがどうしてか水分を持っていく、煮出しの時間が長かったのだろう。それを何とかフイにするように、ガムシロップのわざとらしい甘さが舌に拡がっていく。 飲み干すまでに、時間がかかってしまう。 「私が10歳の時に、夕方に帰ってきた事があったの。その日はママがフランスに里帰りしていて、父方のお祖母ちゃん家に預けられてたから覚えてる。」 煮出ししすぎた紅茶とガムシロップの揉め事を、冷水が流し込む。ようやく思い出した愛結の話を聞く姿勢になれた。 「夜になって、駅前のバーだったかな?何てお店だったか覚えてないけど、確かチョコレートケーキを食べた記憶がある。その時甘い物が欲しいって我儘を言ったの。」 人生で1回あるかないかくらいの、愛結の我儘だったのだろう。それが父にとっても思い出となっていたなら幸いだと言うのは辰実の勝手な願いではあった。 「そのバーの事で、他に覚えている事は?」 「夜景が綺麗だったのは覚えてる。」 愛結の言葉からあれこれと思考を巡らせているうちに、辰実はもうアールグレイの甘いのか苦いのか分からない高そうな味を忘れてしまっていた。
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