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おこもり旅行
船でしか行けないその旅館に着いたのは夕方だった。
タマは移動の間中笑顔だった。
「わーーーっ、綺麗!!」
「んー」
夕日が水面にオレンジの光をばらまいて、そりゃ綺麗だった。
「先月までは、まだ少し雪も残ってたんですけれどねぇ」
案内してくれた仲居さんが、タマの喜び具合に微笑んだ。
タマはニコニコ笑って、そうですかと答えて。
「それでも、十分綺麗です」
と子供みたいに喜んだ。
仲居さんが出て行っても初めて外の世界を見た子供みたいに、窓の傍を離れないタマを背中から抱いた。
「夜は星が綺麗だろうな」
「はい、楽しみですね!」
受け付けで俺の名前やら何やらを書いて、タマは下の名前だけを記入した。
部屋に向かう途中温泉の使用の説明を受け、タマは奥様と呼ばれた。
その時のタマの顔は本当に嬉しそうで、俺とタマが並んで初めて夫婦だと思われた瞬間だった。
「……静かで、素敵な所ですね」
「人気スポットをまわるのもいいかと思ったけど、こっちで正解だったかもな」
肩の力を抜いて、二人きりの部屋。
そのまま窓辺に座って夕日が沈むまで外を眺めていた。
窓から見える切り取られた景色。
静かで、ゆっくりと時間が流れていく。
旅行に行くとタマは親父さん達に連絡してきたし、俺も連絡が来るかもしれない柳にはレスポンスが遅くなる事を伝えて、お互い音を消した携帯はカバンの中にある。
「……ココさん」
「ん……?」
俺の足の間にちんまりおさまったタマは、さっきから黙ってたから、もしかしてはしゃぎ過ぎて寝てるのかと思ってた。
「……不思議ですよね」
「不思議?」
タマは俺の手を握って、柔く力を込めたり緩めたりを繰り返しながら少し眠そうな声で囁いた。
「知り合ってまだ少しですよ?……なのに、こんなに傍に居られるなんて、不思議」
それは多分、この密着加減ではなく心の話しなんだろう。
「……だな、俺は余計不思議だよ」
ん?とタマが首を上向ける。
安心し切った穏やかな目に微笑んで、ついでに頬に唇を触れさせて。
「……誰も信じちゃいなかったから」
タマに話していない、俺の生い立ち。
こうして今回の諸々を話し合う中で、タマは一度もそれを聞かなかった。
それは俺が醸し出す雰囲気のせいか、タマ自身が色々抱えているせいか。
言わない俺に合わせて、訊かずに居てくれたんだと思う。
いつもと違う場所、他の誰の気配も感じない今なら。
「俺、ガキの頃に親に置いていかれたんだわ」
タマは一瞬だけ息を詰めて、きゅ、と俺の手を握った。
きっと、その胸に飲み込んでくれる。
俺はそんな安心感の中で口を開いた。
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