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今更もう、悲しいとか寂しいとか感じてる訳じゃない。
「……ただの昔話だし、俺はそれをここに持ってる訳じゃない」
自分の胸を指先で弾いてみせた。
似たような経験のあるタマにとって、自分のそれも思い出させるんじゃないかと話さずにいたけど。
「養護施設で育った、でも気の合う人間が居たから楽だった」
それから俺は、匡生と渚の話しをした。
夜中に忍び込んで台所で隠れて食った事。
その時喜ばれた顔が、多分俺の料理に目覚めた理由だって事。
途中タマは、ガキの頃のイタズラや、匡生との喧嘩の理由を聞いて笑い、渚が助からなかった所で泣いた。
「……世の中神様なんて居ないと思った、だから誰も信じなかったし適当に生きて死ねればいいと思ってた」
安易に大変でしたねと慰めないタマが、俺は好きだ。
言葉の代わりに潤んだ瞳が俺を映して、柔くて温かい腕が俺を包んでくれる。
「……だから俺は、タマに……千奈に会えたからまともに生きられる様になれたんだ」
お前が全てだと、押し付けるつもりはない。
ただ。
「……千奈、お前が不本意な場所でクソ野郎に耐えた時間が、俺を救った。それだけは事実だ」
俺の人生なんて救ったくらいじゃ、多分タマの痛みの対価にしては少ない。
そう思うけど、タマは溶けるように微笑んだ。
「私、心さんの役に立てたんですね?」
心底嬉しそうに、まるで聖女見たいに目を細めたタマが俺の頬に触れて。
「それなら、もう何も要らない」
そう言った。
「私、もう何も要らない」
「……千奈?」
聞き返した俺の目を、タマは正面から見つめた。
「心さんの、努力と私を楽にさせてくれようとする気持ちを無駄にしたくなくて……私、ずっと心さんに迷惑ばっかりかけてるって思ってて」
「んなわけねぇだろ」
俺が挟んだ言葉に首を振ったタマは、上向いて俺の唇を塞いだ。
唐突なキスは珍しくて、それでも俺はタマを引き寄せて長くそのキスを受け止めた。
何も言うなと言われてる気がして、俺は離した唇の先のタマを見つめて言葉を待った。
「私も、自分の為に生きようなんて思ってなかったんです。……結婚や子供を育てる事に、希望はなかったから」
タマが歩んだ道が、そうさせたんだろう。
それが痛いほどわかるから、俺は膝にタマを引き上げてきつく抱いた。
「でも今は、心さんとなら幸せになれるって思えるの」
だからもう、何も要らない。
もう一度そう言ったタマは、忘れましょうと言った。
「あの人達を忘れましょう、綺麗さっぱり切り捨てて……もう私達の世界に、一ミリも残さないで消しましょう」
正直、それでいいのかと思う気持ちは残ってた。
俺の中のアイツらへの怒りは、まだ確かにある。
言葉を返してやれない俺の耳元、そこでタマは囁いた。
「もう、私は心さんのものだから……この先の視界に、何も混じらせたくないの。一分一秒無駄にしたくない」
ゴミの日に、生ゴミを捨てるみたいに簡単に。
タマはポンと、痛みや悲しみを捨ててみせた。
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