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唄うたいのほっそりとした指が最後の和音を奏でると、妙なる調べの余韻が豪奢な私室に深々と拡がったのだった。
その房室のしつらえは、精緻な織りの壁掛けといい、銀の水差しといい、紫檀の小卓といい、どれ一つをとってもおよそ、平民の一生涯で贖えない逸品ばかりであった。
「玄妙なる哉!」
煙管を片手に紫煙を燻らせていた男は、夢見心地で聞き惚れていたが、我に返ると火皿を逆さにして、燃えかすを灰皿に落とした。そして唄うたいの美声と撥弦楽器の技倆を誉め称え、鷹揚に手を叩くのだった。男の部屋着もまた、滑らかな黒絹に金糸銀糸で刺繍をあしらった上等な代物であって、その権勢を明示しているのであった。
しかしよく見れば、男が鑑賞しているのが、唄うたいの演奏なのか、たおやかな肢体を薄衣で包んだ唄うたいその人なのかは、一目瞭然であった。強い髭をしごきながら男の眼は、豊満な胸元や、演奏のためにしどけなく組まれた両脚の上を執拗に這った。
しかし唄うたいは、男の視姦など意にも介していなかった。それどころか、豪奢なしつらえにも無反応である。というのも唄うたいの双眸はすでに光を失っており、仄かな明暗のほかは象を認識することは叶わないのだった。
「畏れ入りまして御座いまする。御太守さま」
唄うたいの応えは、伸びやかな歌声に比して少しく掠れ、それがいっそう太守の情欲をかき立てた。彼の権力をもってすれば、芸妓の一人を屈伏させることなど、路傍の花を手折るよりも容易い。この邪智暴虐な太守にかかれば、いずれ唄うたい自身が、ひとおもいに息の根を止めて欲しい、と懇願するまで責め苛まれるのは必定であった。
しかし、太守の嗜虐嗜好は、ゆっくりと時間をかけ獲物をいたぶる機会を可惜投げすてるつもりはなかった。犠牲者が行く手に待ち構える己れの悲惨な運命を知らぬ刻を、今は愉しんでいるのだった。
城館の一画にあるこの秘密の小部屋に出入りを許されているのは、耄碌して耳が遠い料理女と、舌を抜かれた侏儒の奴婢だけ。太守閣下をとがめる者など誰もおらぬ。太守は玻璃の瓶子から手酌で酒を注ぐと、喉を鳴らしてひと息に盃をほした。
「されば、次の唄で打ち出しとなりまする。最後までお耳汚しをば。ここよりずっと東に、僕が生国シャルムという都邑があります。ーーおや、御存じでいらしゃいますか? これはシャルムにて紡がれた哀しい噺で御座いますーー」
再び唄うたいは、繊細な指使いで撥弦楽器を奏で出した。それは哀切な調べの物語詩で、要約すれば次のような中身であった。
*
シャルム随一の分限者といえば、ユルグ・ヤガンに他ならなかった。河畔にある交易都市のなか、もっとも大きな天幕を誇るヤガンの店では、珍しい香料や貴重な香辛料、象牙や宝石など高価な品々が商われており、権勢は衰えることを知らないようであった。
ユルグは一介の隊商より身を興した、立志伝中の人物である。取引の場において辣腕、冷徹で鳴らすこの大商人が、ことのほか寛闊な心で向き合う者がひとりだけいた。一粒だねの愛娘レミラ・ヤガンである。
レミラは芳紀まさに十七歳、綠洲の水辺に咲いた可憐な野花のごとき少女であった。肌は白く、はしばみ色の瞳は優しく、珊瑚のような唇は愛らしかった。だが若くして亡くなった母親に似て蒲柳之質であり、広壮な邸の最奥部から出ることは稀である。病弱な娘の行く末が、剛毅な父親の心中最大の懸念事と言えた。
レミラの居室からは、豊富な水量を誇る噴水と、緑滴る見事な中庭がのぞめた。その美しい庭で三匹の飼い猫を遊ばせるのが、唯一の外出であった。
この猫たちを、使用人はいささか気味悪げに遠巻きにした。それは猫たちが、どれも躰のどこかが傷ついているーー目が見えぬものや鳴き声を上げぬものなどーーからではなかった。猫たちはレミラが、夢の中で訪れた都市で拾ってきたと主張していたからである。しかし、ウルタールという名の都邑を知る者など、誰もいなかった。
夢見がちな御姫様の戯れ言といい切れないのが、使用人の不審の源にある。実際、遠出することのないレミラが、閉ざされているはずの庭で、いつの間にか三匹もの動物を飼っているのは不可思議であった。もっともユルグは、娘の心が獣で慰められるのならば、と猫どもの同居を黙認していた。
さて、年頃のこととてレミラには、引きも切らぬ求婚者の列があった。みないずれ劣らぬ権門豪家の子弟たちである。大臣の三男坊、将軍の甥、神官の縁者などなど。ユルグの富は、麗しき乙女と同等の、いやそれ以上に蠱惑的な魅力を発していたからである。
だが初心な御姫様を射止めたのは、利発さで重宝がられていた、ユルグの店の下働きであった。才気横溢なその若者は、篤実な人柄でも親しまれていた。
愛娘の婿選びにはじめ絶句したユルグは、しかし最後には首を縦に振ることになった。何となれば、結局のところユルグは、レミラを目に入れても痛くないほど溺愛していたのである。こうして街中が言祝ぐ、一幅の絵織物のごとき可愛らしい若夫婦が、シャルムに生まれたのであった。
禍福は糾える縄の如し、とは手あかのついた言い回しであるが、世の真理でもある。祝言の余韻もさめやらぬ半年のうちに、ユルグが病に倒れた。大商人の死は呆気なかった。若夫婦に道を譲るかのように、あっさりと身罷ったのである。レミラの悲嘆はひとかたならなかったが、不幸はさらに続いた。ある日、可愛がっていた三匹の猫たちが姿を消すと翌日、レミラの部屋の窓辺に、無惨な生首を晒したのである。
心痛のあまり伏せったレミラに、追い討ちをかけたのは、最後にして最大の不幸であった。良人の裏切りである。かの若者は、レミラが倒れている隙に、ヤガン家の財産、交易権から家屋敷、そして妻のレミラさえも売り払い、己れは窃かにシャルムを去ったのであった。
街外れの、大河ウズに面した急崖にてレミラの亡骸が見つかったのは、それからほどなくしてである。この崖は近在に知らぬ者とてない、しかし誰の口の端にも上らない場所で、みなはそこを〈楽土〉と称していた。無論、それは独特な逆説の言い回しであって、〈楽土〉とはすなわち、〈陰府〉の謂いである。その昔、血族のなかで双子や、不具者や、年寄りなど、なんの役にも立たない、或いは厄を呼び込むとみなされた者が、同胞たちによって突き落とされたという忌まわしい言い伝えの残る崖であった。
忠義に篤い使用人が、レミラを邸から救い出したのが、逆に仇となったのかも知れぬ。裏切られ捨てられた御姫様は、世を儚み、父と猫たちに詫び言を述べながら身を投げた。その後、崖下の水辺に美しい花が咲くようになり、楚々としたその花は姫草と呼ばれるようになったという。
*
太守の動きは、歳に似合わず機敏だった。あっという間に殺到するなり、唄うたいを掴まえたのだった。
「汝は何者だ? なぜ儂に斯様な昔話を聞かせた?」
太い指が、唄うたいの細頸を容赦なく締め上げた。ヒューヒューと隙間風のような呼気が、唄うたいの唇から洩れる。
「儂のことをどこで知った? あの性悪なヤガンの縁者なのか?」
太守は口角に沫を浮かべ糾問する。いかな厚顔無恥な卑劣漢と言えども、旧悪を唄われては立つ瀬がないと見える。そう、今や御立派な太守閣下その人こそ、かの歌物語の悪役なのであった。
太守の部屋着の襟足がむんずと掴まれたのはそのときである。容赦のない剛力が、唄うたいから太守をひっぺがした。不様に転がりながらも、護身の短剣を抜いたのはさすがであったが、剛力の主に太守は、眉をひそめた。
「何のつもりだ、この痴れ者め!」
刃を突きつけた先にいたのは、侏儒と料理女であった。だが太守閣下は、己れの眼に不信を抱いた。こやつらの眼は、斯様な黄金に耀く亀裂めいた眼であったろうか。こやつらの背は、斯様な獣めいたまろみを帯びていたろうか。
「うぬ……ら……」
ここで初めて太守は、己れの舌がうまく回らないことに気づいた。舌が唇が痺れて、思うように動かない。それどころか、湾曲した短剣を構えていることすら儘ならなくなってきた。太守はよろけ、片膝を着き、ついにはあお向けに倒れた。
「閣下に盛ったのは、魚より抽出した毒液に御座いまする。手足は動かず声も出せないが、意識は霞ませないーー」
唄うたいが近寄ってきた。料理女も、奴婢も。三人は太守を取り囲み、井戸の底を見るように覗きこんだ。三つ並んだ顔は、ますます人を離れていくようだった。大きく割けた口には鋭い牙がのぞき、鼻はひくひくと蠢き、ぞろりとした毛が見る間に顔中を覆っていった。
「レミラ様は、我らウルタールの猫族と睦やかな知音であった。汝の無道、目に余る。嗚呼、あのとき汝の差し出した毒餌など喰ろうておらねば……」
唄うたいは明らかに、人語を発音しかねている。
「己れの奸邪の心ざしの報いを受けよ。汝は我の賄いし膳を喰うたであろう。今宵は汝が活きたまま、踊り喰いされるのだ」
料理女は、舌舐りした。
太守は誰か呼ぼうと必死にもがいたが、指先ひとつ動かない。
「我は肝から頂こうか」
唄うたいが部屋着を捲り、太鼓腹に指を這わせる。
「ならば我は陰嚢を引きちぎろう」
料理女がクツクツ嗤いながら、長袴を剥いだ。
声のない奴婢は、むろん何も喋らなかった。が、頭の側にしゃがみこむと、いきなり太守の片目に指を突き入れた。そして事も無げに抉り取ったのだった。太守は手足をじたばたさせ抗おうとしたが、出来ることは何一つない。ぺちゃぺちゃと、眼球をねぶる音が室内に響いた。
「ウルタールの猫神様。そしてレミラ様。我らはこの者をあなた様への供犠とし、相饗致しまする……」
唄うたいの声が殷々と響いた。
翌朝、城館の使用人たちは、秘密の小部屋で綺麗に肉の削げ落ちた骸骨を見つけた。不可解なことに小部屋は、内側より施錠されていた。外部への開口部は、猫が通るのがやっとの狭い高窓のみであったという。
(了)
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