一、出会う

1/11
41人が本棚に入れています
本棚に追加
/34ページ

一、出会う

 花野枝(はなのえ)村。  この村を訪れるのは十年ぶりだ。  人口八千人ほどの景観豊かな村で、『日本の美しい村』にも選ばれているほどだ。時の総理大臣の生まれ故郷ということで、一時話題になった村でもある。  水野(みずの)志音(しおん)は、梅雨真っただ中の張りつくような空気にやや押され気味になりながらも、木々に囲まれた坂道を上っていた。  空はどんよりとした曇り空。今にも降り出しそうだけれど、天気予報では曇りの予報だった。  ここは車が一台通るのがやっとの道だ。舗装もされておらず、先に行っても木々に阻まれ行き止まりになる。  ではなぜ道が通っているのかといえば、小さな社が一つあるからだ。村民が時折来ては掃除をしたり、お供えをしたりして村の小さな神様を祀っている。  志音は社に二礼二拍手一礼をすると、周囲を見回した。少しも変わっていない。あの頃のままだ。  鳥の声と葉が風に揺れる音に耳をすませる。  あの出来事から十年が経ち、今自分は二十歳になった。  今日は、十年前のあの日だ。  志音はぎゅっと手のひらを握り込む。  何か思い出せるかとも思ったが、記憶はそうやすやすと戻ってはこないようだ。 「どうして思い出せないのだろう」  誰にともなくつぶやいた言葉も、鬱蒼としげる木々に吸い込まれていくようだった。  あの日何があったのか。思い出せていたなら、何かが変わっていただろうか。  確かめるすべもなく、探るのも恐ろしく、曖昧で断片的な記憶の欠片に怯えるばかりだ。 『志音くん、私のこと忘れないでいてね』  憶えているのは消えてしまった彼女からの言葉。意識を手放す直前に聞いた、おぼろな記憶の中で浮かび上がるたった一言。  思い出そうとしても、情景がすべて歪んでいて見えない。なのに、その声だけは、はっきりと響くのだ。  忘れるわけない。忘れられるわけがない。大好きだった幼馴染なのだから。  彼女ことは覚えているのに、あの日何が起こったのかまったく思い出せなかった。  夏目(なつめ)小都(こと)。当時、彼女は中学一年生だった。志音は彼女よりも三つ年下だ。  十年前の今日、彼女は志音の目の前から忽然と消えてしまった。最後に一緒にいたのは志音だった。  幼かった自分は守られていた。事情を訊きに来た警察に何も言えなかったけれど、誰も責めなかった。あの時、自分は薬で眠らされていて、村のバス停のベンチに置き去りにされていたそうだ。そのせいで記憶が混濁しているのだろうとされた。  煮え切らない思いを抱えたまま、志音はとぼとぼと元来た道を引き返す。  林道を抜けるとすぐに大粒の雨が地面を叩き始めた。  傘は持っていないし、バス停までも遠い。  駆け足で雨宿りできる場所を探していると、古民家風の建物が見えた。竹垣で囲まれており、入り口の横には「あじさい荘」という、木でできた古びた看板が置かれていた。  志音は古民家の軒下に駆け込んだ。  ほんの数分だったのに、だいぶ濡れてしまった。途方に暮れて降りやみそうにない雨を見つめていた。  雨の音以外、何の音もしない。  そういえば。あの日も途中から雨が降ってきたのではなかっただろうか。  突然に、意識があの日に引っ張られていく――。  
/34ページ

最初のコメントを投稿しよう!