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かすかにシトラスの香りがした。普段なら気にしないような匂いだ。きっと、隣の子が使っているシャンプーの匂いだろう。もしかしたら緊張でかえって、私の五感は研ぎ澄まされていたのかもしれない。
TOEIC九〇〇点。半年間、海外への留学経験あり。私とはかけ離れた華々しいスペックが、耳に入っては脳を刺す。
何回も推敲した文章が、瘦せた枯れ木のように、ゆらゆらと揺らぐ。
「では、土屋さん。一分間で自己PRをお願いします」
三人の面接官の目が、一斉に私に向く。もう何十回と面接を受けているのに、毎回リセットされたように私は緊張してしまう。
面接官だってつまるところは一社員、ただのおじさんおばさん。キャリアセンターの講師のアドバイスが、何の役にも立たない。
それでも、私はせめて歯切れのいい返事をして、立ち上がった。背筋を伸ばして、視線は面接官全員に満遍なく。ネット記事に書いてあった通りの仕草を、そのまま実行する。
「藍佐大学から参りました土屋萌音です。私は粘り強く、コツコツと物事に取り組むことを得意としています。私は大学では文芸サークルに所属して、小説を書いていました。小説というのは毎日地道に書いていかなければ完成しません。私は何も思いつかない時でも、毎日一〇〇〇文字は書くと決めて執筆に取り組み、その甲斐あって一二万文字の長編を完成させ、文芸雑誌の新人賞で二次選考まで残ることができました。この強みを御社でも生かし、初めはうまくいかなくても粘り強く仕事に取り組み続け、一冊でも多くの本を制作することを約束します」
私が元気な演技をするみたいに自己PRを言い終わると、面接官は「分かりました」とだけ告げた。前の子とは一言二言話を広げていたのに、私にはそれすらもしてくれないらしい。
「ありがとうございます」と腰を下ろしながら、私の心は既に折れかかっていた。
当然だ。「粘り強く、コツコツと物事に取り組むことができる」。それは人の長所を挙げる際に、「優しい」と言うことと同義だ。最低限の前提を、無理やり絞り出したにすぎない。
一二万文字の長編を書いて、新人賞の二次選考まで残った。それは事実だ。嘘はついていない。だけれど、毎日一〇〇〇文字書いていたら、一二万文字なんて半年もかからない。そもそもパソコンに向かっている時間よりも、居酒屋で先輩たちの興味も湧かない話を聞かされている時間の方が、ずっと長かった。
つまり私は平凡で、没個性的な大学生活を過ごしていた。誇れることなんて、他には生まれてから一回も虫歯をしていないことぐらいしかない。
私の次の学生は、起業したことがあるようだ。勝負の土俵にすら立てていないことを、私は今日も思い知らされていた。
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