酷暑の地獄とラッキーと。

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 「ぁ゛あ゛暑ィーー……」  クーラーの切れた四畳半の自室、畳の上で日光の差し込む窓を睨みつけた。だらだらと全身から汗が噴き出しているのを感じる。まだ朝だというのに既に気温は30度近い。いよいよ真夏になったということか。クーラーなしではすぐに死んでしまいそうだ。  しかし切タイマーは設定せずに寝たのにまさか暑さで起きるとは。エアコンくんはいったいどうしてしまったのか。そういえば深夜に雷が鳴ってた気がする。完全に電気を消して寝ていたので気が付かなかったが、あの時に停電してクーラーが切れたのだろう。納得してエアコンのリモコンに手を伸ばし、クーラーのスイッチを入れる。  ピッ。  リモコンからはスイッチを入れた音がしたのに、エアコンのランプは光らない。羽も動かない。嫌な予感がした。いや反応しなかっただけだろう。きっとそうに違いない。そうであってくれ。頼む。  ピッ。  ピッ。ピッ。  ピッ。ピッ。ピッ。  何度リモコンのボタンを押してもエアコン本体の反応は無い。なんということだ。このクソ暑い真夏の入口に、命綱たるエアコン様が壊れてしまった。死だ。死んでしまう。こんなのは実質死刑宣告じゃないか。  急いで修理会社を探してみたが受付開始時間までまだ3時間近くある。絶望した。とりあえず全身から溢れ続ける汗を流して、どこか涼しい場所に避難しよう。バスタオルを引っ掴んでユニットバスに向かった。  冷水シャワーで汗を流してバスタオルで体を拭く。さすがに冷水を浴びたことで一時的には体が冷やされたが、すぐに暑くなってきた。太陽が強すぎる。とにかく少しでも涼しくなりたい。袖なしの服と短パンを着て、クーラー対策の上着とスマートフォン、財布だけ持って家を出た。  朝早い時間だというのに、太陽はじりじりと肌を焼く。そういえば日焼け止めを塗るのを忘れた。いや、そもそも日焼け止めを切らしていた気がする。後で買いに行こう。  日陰で犬の散歩中らしき人達が暑くなるのが早すぎると太陽に文句を言っている。まったく同感だ。午前中は20度、せめて25度以下に保ってほしい。飼い主たちが早朝かつ靴を履かせてでなければ散歩させられないと嘆く。連れられている犬たちは犬用の靴のようなものを履いている。なるほど、肉球を守るグッズのようだ。  年中着物のおばあちゃんが家の前の道路に水を撒いている。今はまだアスファルトが熱くなりすぎてはいないのか、打ち水の効果を少し感じられる。夏着物とはいえ暑くはないのだろうか。思わずおばあちゃんを見つめていると、彼女はこちらに気がついてにこりと笑った。  「あら、おはよう。随分早いお出かけね」  「おはようございます。暑さで起きたので駅前のカフェにでも行こうかと」  「そう……珈琲は水分補給には向かないって聞いたから、ちゃんと水も貰うのよ」  「はい、そうします。そちらも気をつけて」  「ええ、ありがとう」  打ち水の範囲を抜けてしまうとまた暑さが増した。やはり一定の効果はあるらしい。たらりと米神の辺りから顎へと汗が伝う。その擽ったさと不快感に眉を顰めてハンカチで汗を拭った。湿度で下着が肌に貼り付いているのを感じる。夏じゃなければ気にならない道のりも、真夏の間は異様に長いように錯覚する。  暑さのせいで数分の歩きで数十分くらいの体力を奪われた。やっと見えてきた駅ビル、土曜日も仕事らしき人々が汗を拭きながら虚ろな目をして駅に消えていく。その手前に安いチェーン店のカフェの黄色い看板が見えて、自分の顔が綻んだのがわかる。  自動ドアが開いた瞬間に冷気が肌を撫でた。それだけで生き返る心地がする。大袈裟に聞こえるだろうが、地獄蒸し状態の四畳半から逃げてきた先の冷気は、泣きそうな程の感動だった。アイスコーヒーとクロックムッシュを注文して、それからセルフサービスの水を貰う。  店内はまだ閑散としていて、席は選び放題だ。曜日問わずよく見かけるおじいさんが喫煙席で煙草を吸っている。そういえば煙草すら持たずに出てきたことに気が付いた。一刻も早く地獄蒸しと化した部屋から抜け出したかった。  喫煙席の傍の壁際、ふたり席のソファに座って水を飲む。思ったよりも渇いていたのか、一気に飲み干してしまった。クロックムッシュのチーズが固まらないうちにと食べ始める。安いチェーン店だ、多少のちゃっちさはある。それでも味はそれなりに美味しいし、量だって異常に少ないわけではない。コーヒーは価格から考えるとかなり美味しいし、コスパを考えるとやはりこのカフェが一番だ。  クロックムッシュを食べ終えると、アイスコーヒーを飲むしかやることがなくなる。飲み物だけではエアコン修理の受付開始時間までの暇潰しには心許ない。スマートフォンで漫画でも読もうかとアプリを開く。  何か面白そうなものはないかとスクロールしているうちに、急激な眠気に襲われた。外を歩いて熱くなった体がクーラーで冷やされたからだろう。ほとんど意識を失うような形で眠ってしまった。  「おーい、大丈夫ですか?」  顔見知りの男性に声をかけられて目を覚ました。どれくらい眠っていたのか。喫煙席にいたおじいさんは居なくなっているし、アイスコーヒーの氷も溶けきっている。  「あ……だ、大丈夫です。すいません」  「脱水とか熱中症とかでも眠くなるらしいですけど……」  「たぶんそういうんじゃないかと……」  心配そうに顔を覗き込んでくるその人を安心させようと、へらりと笑って首を振った。大丈夫だと判断したのか、彼はひとつ頷いて隣に座る。店内を見渡してみると寝る前より席が埋まっている。スマートフォンで時間を確認すれば1時間半ほど経っていた。  「土曜日に会うのは初めてですね」  隣の男性がそう言うのを聞いて考える。そういえばそうだ。そもそも土曜日の朝にカフェに来ること自体が初めてである。いつもは土曜日はほとんど家から出ないのだから。エアコンさえ壊れなければ今日も家から出なかったはずだ。  「実はエアコンが壊れまして……家にいたら冗談抜きで死んでしまうと思って避難してきたんですよ」  「そりゃ大変だ。この時期は修理会社もすぐには来てくれないかも知れませんね」  「ですよね……」  今日中に直るだろうか。来るのに数日、直すのに数日、なんてことになったらどうしよう。誰か泊まらせてくれるだろうか。不安に思って俯くと、彼は顎に手を当てて何やら考えながら尋ねてくる。  「ちなみに壊れたというのはどういう……?」  「えっと……リモコンの操作をエアコンがガン無視してる感じですね。リモコンはピッピッって鳴ってたので壊れてないと思うんですよ」  「あー……エアコン側のリモコン受光部の故障かなぁ……」  何やら詳しそうな彼の発言にぽかんとしていると、彼は笑って頷いた。それから名刺を差し出してくる。受け取ったそれには『まちの便利屋 たかまつ 高松幸仁(たかまつ ゆきひと)』と書かれている。  便利屋。便利屋とはあの便利屋だろうか。家事代行やら子守やら家電の修繕やら、やれることは何でもやってくれる、あの便利屋。期待を込めた目で視線を向けると、彼は得意げに笑って頷いた。  「俺の考え通りなら、該当の部品さえあればすぐに直りますよ。とりあえず俺が見ましょうか?」  「いいんですか!?助かります!!」  「と言ってもエアコンの型番によっては部品がない可能性もありますけどね」  ゆっくりと彼の朝食が終わるのを待ちながら、溶けた氷で薄まったアイスコーヒーを飲む。希望が見えるとこんな土曜日も悪くない気がしてきた。顔見知りの人がたまたまエアコンの修繕まで請け負っている便利屋だった、なんて奇跡。ツイてないと思っていたけど本当はハイパーラッキーな日なのかも知れない。  高松さんと一緒に家へ帰る。とにかくカフェに逃げたかった行きは長く感じた道も、希望がある分ちょっとマシに思えた。でも太陽に頭を熱せられると冗談抜きで本当に頭が溶けて無くなりそうな感覚すら覚える。暑さだけはさっきの方がマシだったかも知れない。それでも気持ちは今の方が軽い。  鍵を開けて家に入る。むわっと湿度の高い空気が全身に纏わりついてくる。外より不快感が強く、余計に暑く感じた。高松さんも顔を顰めてTシャツの裾で額の汗を拭っている。  早速エアコンの挙動や部品、メーカーと型番を確認してくれる高松さんに、氷をたっぷり入れて麦茶を差し出す。彼は礼を言いながらコップを受け取ると、ゴクゴクと音を立てて麦茶を一気に飲む。彼の日焼けした喉仏が上下に動く。その首筋を汗が伝い落ちていく。ぷはーっ。彼が空になったコップを下ろす。その色気と爽やかさの共存がどこぞのCMみたいで、ちょっと笑ってしまった。  「お茶ごちそうさまです。やっぱりエアコン側のリモコン受光部を交換すればって感じですかね。まぁ結構古い型なので丸ごと買い替えてもいいかも知れないですけど、どうします?部品だけの交換にするなら、一応うちの在庫にあったはずなので取りに戻ればすぐ直ります」  「あー……ちなみに部品の交換って値段どんくらいになります?」  「この型なら1万5千円くらいですね。諸々込みで」  「おお!思ったより安い!買い替えだともっとかかるし……お願いします」  「承りました」  頭を下げて部品交換を頼むと、高松さんも丁寧に頭を下げて笑った。それから彼は、すぐ近くにあるという便利屋の倉庫へ部品を取りに行き、その間にこっちはATMでお金を下ろしてきた。今まで認識していなかったけど、彼の方が先に戻っていたので相当ご近所さんだったらしい。  高松さんはすぐにリモコン受光部ってとこの部品を交換して、ちゃんと動作確認までしてくれた。エアコンがリモコンの操作にちゃんと反応して冷たい空気が部屋を駆け抜けた瞬間の感動は大きかった。彼は「動作確認をすると涼めるから」なんて冗談めかしていたけど、たぶん必要な手順なんだろう。隣でアホみたいにはしゃいでるのも気にせず、真剣な表情で確認をしていた。  「ありがとうございます!命の恩人です!」  「こちらこそ毎度あり!ですよ。麦茶もご馳走になりましたし」  「また何かあったら依頼します」  「お待ちしてます」  大袈裟な喜び方にも爽やかに返してくれる。あまりにも良い人だ。高松さんを見送り、すっかり元気を取り戻したエアコン様のお陰で涼しくなった部屋で大の字に寝転がる。あまりにも快適。あまりにも神の息吹。文明の利器にバンザイ。  そうだ、息を吹き返してくれたエアコン様にも感謝を伝えなくては。そして末永く働いていただこう。勢いよく起き上がり、エアコンに向かってゆっくりと平伏する。  「エアコン様……!直ってくれてありがとうございます!これからもどうか、どうか末永く!よろしくお願いします!」
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