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住宅街であるこの辺りは、夜は静かだ。とあるアパートの一室に住むユウスケは、部屋で携帯の画面を見ている。そこから流れる音以外は何も聞こえては来ない。
彼は二階建のアパートの、二階の角部屋に住んでいる。ワンルームの、どこにでもありそうな古くも新しくもない建物だ。彼の住む下の部屋は高齢の女性が一人で住んでいて、午後八時くらいまではテレビの音が聞こえ漏れてくるが、それ以降は生活音は消える。寝てしまうのだろう。
隣りの部屋は誰かが暮らしているのは間違いないが、生活音はほとんど聞こえてこない。彼は隣人の顔を見たことがなかった。だから、その住人が男か女かすら知らない。ある日、仕事帰りに外から隣室の部屋の明かりが付いているのを見て、引っ越して来たのを知ったのだった。越してきてもうどれぐらい経つだろうか、彼はその時期すら曖昧だった。
隣りの部屋に関しては少し薄気味悪かったが、とても静かでもあるし、顔を知らないという事がユウスケ自身に迷惑になることは一つもなかったので、彼はそのままにしておいた。
しかしある時期から、その隣人が少し奇妙な行動を取り始めた。正確にはユウスケが気付かなかっただけで、もしかするとかなり前から行われた事なのかも知れない。彼にも仕事があり、生活があるので、家の周りの些細なことに気付く余裕はなかった。
隣人の奇妙な行動。それは、平日の夜、恐らく仕事からの帰宅だろう、自身の部屋の前まで来るのだが、そこですぐに中には入らずに、しばらく止まるのだ。それからしばらくして、扉が開閉する音が聞こえる。その時間は大体五分くらい。結構な長い時間だ。隣人は扉の前で何かをしているのか、それは部屋の中にいるユウスケには分からなかった。変に詮索するのも何となく怖くて、彼はその時間は自分も部屋から一歩も外に出ないようにしていた。
その事を知って以来、特に夜になると、彼は部屋にいる時には外から聞こえる音を意識してしまうようになった。
コンビニで買って来た夕食を平らげた後、しばらく携帯を眺め続けて、時刻は午後九時を回っていた。
「来たな」
アパートの階段を上る足音が聞こえて来た。大体いつもこのくらいの時間だ。足音はゆっくり、だんだんと近づいてきて、ユウスケの隣の部屋辺りで止まった。そして静寂。いつもの様に扉は開かない。
「早く入れよ」
そう思う。この時間が彼にとっては本当に無意味な時間だ。妙な緊張がして、神経が過敏になる。携帯を見る手も止まる。
買い物に行く振りをして外に出てみようか、彼は今まで何度もそう思って来た。だが、体は重かった。隣人と余計な関係を持って、プライベートに余計なストレスを抱えるのが嫌だった。彼は基本的に人付き合いが苦手だった。
やがてガチャンと音がして、隣の部屋の扉が開いた。ユウスケは大きく息を吐いた。まあ、この時間だけ我慢すれば後は問題はないのだ、そう思って再び携帯をいじり始めた。
しかし、そんな彼の我慢も限界に来てしまった。一日五分程度の我慢、それぐらいはと思っていたが、彼の精神には思っていたよりもダメージが刻まれていた。
ある日、いつもの様に隣の部屋の入口前で足音が止まった。ユウスケは反射的に立ち上がった。そして、サンダルを突っ掛けて外に出た。隣の部屋の方を見ると、若い女性が一人立っている。
「ユナ…、か?」
女性はニッコリと笑って、
「ユウくん」
そう言って目をキラキラさせている。
「おまえ、その部屋に住んでるのか?」
「そうだよ」
ユウスケは目眩がした。ユナは彼の前の彼女だ。心臓の音が大きく、早くなる。
「どうしてその部屋に…」
「ん?空いてたからだよ。だから引っ越してきたの」
「空いていた?」
「うん。まあ、正確に言えば空けてもらったんだけど」
「空けてもらう?」
「フフ。前住んでた人にね、出て行ってもらったの」
「どうやって?」
「お金をたくさんあげたら、出て行ってくれた」
ユウスケはその場に倒れそうになるのを必死で堪えた。今の状況を理解しようと頭をフル回転させる。
確かにそうだった。前の隣人が部屋を出て行ったのは、ユナと別れたすぐ後だった。それからすぐに顔の知らない隣人が越してきたのだ。それは本当に恐るべき速さだった。
ユナだったのか。別れたはずの女性がずっと隣に住んでいたのだ。ユウスケの背筋を汗が伝う。そう、彼女は異常だった。自分に対する愛情の深さが。
「いままで新しく越してきた人の顔を見たことがなかった。おまえだったのか」
「そうだよ」
ユナは平気な顔をしている。
「…どうして今まで俺の前に姿を見せなかったんだ?」
ユウスケは思っていたことを率直に聞いた。
「だって、そうしたら私ストーカーになっちゃうじゃん。それは違うから。だからユウくんの方から来てくれるのを待っていたの」
隣りに越してきている時点で完全にアウトだろ、ユウスケはそう思うが、口には出さない。ユナという女性は、この辺りの客観性が完全に欠如してしまっているのだ。言っても無駄なのを彼は知っている。
ユナと付き合っていたのは半年程度だ。だから関係は深くなかった。自分の住んでいる場所はある程度は教えてはいたが、連れてきたことはない。だから彼女は正確な場所は知らないはずだ。恐らく後を付けて来たのだろう。ユナはそういう事をする女だし、何よりそこに罪悪感を感じていないのだ。
その彼女の異常性にユウスケは早くから気付いていた。だから深みに嵌まる前に別れた。そして彼女はユウスケが拍子抜けするくらいそれをあっさりと受け入れた。彼は純粋に喜んだ。だが、全く終わってはいなかった。むしろその距離を格段に縮めていたのだ。
「もうー、毎日のように部屋の前で立っていたの、結構大変だったんだからね。半年は続けたかな?やっと出て来てくれた」
ユナはそう笑顔で話す。
「ユナ、俺達は別れたはずだろ?」
「うん」
「じゃあなんで俺の隣の部屋に引っ越してきたりするんだよ」
「それは好きだからに決まってるじゃん、ユウくんが」
ユナはユウスケをじっと見つめた。目には涙がいっぱいで輝いている。これはダメだ、ユウスケは思った。
「でもよかった」
ユナは安心したように言った。
「…なにが?」
「もしユウくんがさ、違う女の人を連れてくるようなことがあったら、私どうなっちゃうかわからなかったよ」
その言葉の恐ろしさに、ユウスケはもう何も答えることが出来なかった。彼女からは逃げられない。
ユナは傍から見れば普通の若い女性だ。容姿も体形も普通で特に目立ったところもない。黒い髪は細く、多少神経が細かそうな印象を受けるが、肌は白く肌理が細かくて若い女性らしくふっくらとしている。彼女と接して、嫌いと感じる男性は少ないだろう。それは飽くまで表面的な部分ではあるが。
そして、ユナは確かに異常なところがあるが、それは四六時中ではない。普通の愛情表現を返していれば特に問題はなかった。彼女はその愛情の深さを、相手には求めていなかった。こういう女性にありがちな重さというものがなかった。
では、なぜユウスケはユナと別れたのか。
それは単純にユナに対して性的に惹かれなかったからだ。彼女に対して愛おしいという感情が全く生まれなかった。心も、体も。
ユナから逃げられない。それはつまり、全く好きになれない女性とこれからずっと一緒にいなければならないのだ、恐らく死ぬまで。
そして、他の誰かに対して恋愛感情を抱くことも決して許されない。ユウスケは今日、それを確信した。
「ユウくん。御飯ちゃんと食べてる?私、今度作って部屋に持って行くよ」
「…ああ」
ユウスケは生返事をするしかなかった。皮肉にもユナの作る料理は美味しい。彼女を好きになれたらどんなに幸せか。
そして、彼はユナを恨む気持ちにもなれなかった。何よりもそれが彼にとって致命的だった。
「じゃあね。今日はお休み。これからもよろしくね」
そう言うと、ユナは自分の部屋に入って行った。
夜風がユウスケの頬を撫でる。頭の中でユナの魅力的なところを必死で探した。この行為を今まで何度繰り返したことか。そしてそれは必ず徒労に終わる。
隣の部屋から冷蔵庫を開ける音が微かに聞こえて来た。その瞬間ユナの嬉しそうな顔がユウスケの心に浮かんで、それはいつまでも消えなかった。
完
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