不機嫌な奥様

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不機嫌な奥様

 志吹(はねる)はこの日、心地よい疲れを感じつつもマンションのドアを開けた。 「ただいま!」  跳はそう声を張る。どんなに疲れていたとしても必ず帰りのあいさつは元気よく行うこと。これは跳が自分自身に課しているルールだ。 「おかえり!」  妻の(みどり)が普段ならそう出迎えてくれるはず。しかし今日は返事がない。 「ただいま!」  再度跳が言い、リビングへと入る。跳がソファーに目を遣ると、翠が明らかにご機嫌斜めな表情を浮かべつつ無言で座っていた。テレビでは今日のスポーツニュースが流れており、跳が今日行った記者会見のインタビュー画像が映っていた。記者の質問に答える跳は照れを隠しきれておらず、幸福の絶頂といった様子が目もと、頬、口元から図らずも溢れ出している。  跳は日本を代表する水泳選手であり、400mの個人メドレーと200mのバタフライを得意としている。テレビの出演料やスポーツメーカーのスポンサー料などで生計を立てつつ、1時間程度のドライトレーニングと10000m程度の水泳練習を日々重ねている。日本選手権では表彰台の常連であり、先日の国際大会では200mバタフライで銀メダルを獲得した。  次回のオリンピックでメダル獲得が大いに期待されている中での結婚報道を受け、跳のもとにマスコミ各社から取材依頼が殺到した。そして今日、囲み取材に応じたのである。 「出会いのきっかけは?」 「奥様からは何と呼ばれています?」 「奥様の得意料理は?」  今朝ひととおりの取材を受けたあと今日の予定をすべて済ませ、トレーニングを終えて家路についたら、この状況である。 「ええと、ご飯……」 「私は食べたから、適当に済ませて」  翠がそっけない態度でそう答える。 「……あ、ああ……」  跳はあっけに取られた表情のままキッチンに向かう。いつもならかつおだしの匂いや甘い香りなどが立ち込めるキッチンからは今日は一切の匂いを感じない。鍋やフライパンなどは所定の位置に整然と並べられており、キッチンには調理が行われた形跡が残されていなかった。 「適当に食べるよ」  跳はそう言って冷蔵庫をいろいろと開けてみる。冷蔵庫の中にはボイルされた後の鶏のささみやカットされた後パックに入れられた葉もの野菜などが入っていた。途中までは調理をすすめようとしていたらしい。跳は冷凍庫に保存されていた冷凍ごはんをチンした後冷蔵庫に残っていたそれにしらすをかけ、そこにだしじょうゆをかける。それと柚子胡椒で味付けした冷ややっこで夕食を済ませた。水泳選手は人一倍食べる量が多いといわれており、2008年の北京オリンピックで8冠を達成したマイケル・フェルプス選手の摂取カロリーは1日当たり成人男性5~6人分に及んでいたとも言われている。本来であれば跳も例外ではない。あまりにも質素な食事だ。 「どうしたんだよ」  食事を終えた跳は翠にそう声をかけるが、翠の態度は冷え切ったままだ。 「自分の胸に手を当てて考えてみて」  翠はそう言い残し、寝室へと入ってしまった。  この日跳は釈然としない思いを抱えたまま、ベッドへともぐりこんだ。
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