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「はい。次はブレスト。用意。ゴー」
次こそはしっかりとしたタイムを出さないと。跳はそう言い聞かせつつ壁を蹴り出す。1掻き1蹴りをして水面に浮き上がる跳。小さく速いキックに、小さく速いプル。フォームはいつもと同じ。しかし、やはりバタフライや背泳ぎと一緒で、いつもと比べて推進力が劣っているのがわかる。
「11秒6。全体的に遅いから最後ちゃんと上げてこいよ。用意。ゴー!」
最後の100mはクロールだ。試合でいつも行っているようにラストスパートをかけていく。しかしいつもほど最後の力が湧かない。ふんばりがきかない。
跳は原因に気づいていた。
跳は昨日から十分な食事をとっていない。今日のようにレースとほぼ同様の全力で行い、心拍数を最大近くまで上げることになるメニューではグリコーゲンが大きく消費される。そして翠が機嫌を損ねた昨日の夕方から今朝まで跳が摂った食事量はいつもの半分以下だ。体を動かすエネルギーが、特に糖質が明らかに不足しているのだ。
翠は大学生のときに栄養学を専攻していた。同棲、結婚としていく中で翠は跳の食事管理を普段から念を入れて行っている。激しいトレーニングの中でかなりの量のグリコーゲンが消費されることを見越して栄養たっぷりの、しかしバランスが偏らないメニューを毎回考え、作っているのだ。しかしその翠が昨日の夜に今までにないくらい機嫌を損ねてしまい、跳は昨日から今朝にかけて食事を適当に済ませるしかなかった。もっとも原因はそればかりではなく、翠のことが胸の奥で支えているのも紛れもない事実なのだが……。
「はい9秒6。跳。今日はもう上がれ」
「ですがコーチ。まだ2セット残って……」
「こんなに状態が悪かったら練習にならん。上がっとけ」
「……わかりました」
この日の跳の練習はこれで終わってしまった。
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