オランジュの翼

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 二年の月日が過ぎた。テオドールは八歳になったが、相変わらず弱いままだ。父の葬儀以来、人前に出ることを極端に嫌うようになり、転地療養の名目で本邸を出た。  テオドールにとって本邸はいい環境とはいえない。翼を持つ者を得るため、子作りに励んだ先代の子は生きている子だけでも十人を超える。テオドールは待ち望まれた子だから必然特別扱いを受け、姉兄の風当たりは強い。  一緒に遊ぶことも拒否され、転ばされたり、持ち物を隠されたりするのは当たり前。母の側がいいだろうと思っていたが、その母の愛も重荷とわかって連れ出した。  なかなか翼を持つ者が生まれないことに焦った先代は側妻を持った。正妻よりも血の近い側妻がテオドールを生んだ。正妻と側妻はうまく行っているように見えていたが、先代が死ぬと対立が表面化した。  板挟みになったテオドールが目に見えて弱って行くのに気付いてクレマンはすぐに転地療養の手続きを行った。実務やもろもろのことを肩代わりしてくれているアデラールは何も言わずに了承してくれた。  親子ほども年の離れた兄は異母弟の窮状を理解してくれていたらしい。 「私が翼を持っていたらテオがこんなに辛い目に合わずにすんだのに」  アデラールはそう言って悲しそうに笑った。頭脳明晰、身体頑強、人当たりも良く、人を使うのもうまい。彼に翼があったら誰もこんな憂いを抱かずに済んだのだろうか。詮無いことを思い、クレマンは頭を振る。運命は変えられない。  クレマンは時計が九時をさしているのに気付き、テオドールの寝室のカーテンを開ける。テオドールは朝起きるのが苦手だ。早くても十時、遅ければ昼まで起きられない。クレマンが甘やかしているのではない。無理に起こすと腹痛や頭痛を起こし、一日無駄にしてしまうことになる。  病弱で寝付いてばかりのテオドールが少しでも元気に過ごせるようにするのはなによりも重要だ。  太陽の光に照らされて、少年の青白い頬が透けて見えるようだ。くふと笑っただけで起きる様子はない。日の光に艶やかな黒髪と純白の翼が光る。日差しで少しずつ体が温まり動けるようになるとテオドールは言う。神秘をまとうオランジュ侯爵がそういうのであればそうなのだろうと納得するしかない。実際雨の日は寝起きが悪い。  お湯を沸かし、ティーポットを温めながらテオドールが声をかけてくれるのを待つ。静かで優しい時間がクレマンは嫌いではない。 「クレマン」  声をかけられ、ベッドのそばに膝をつく。 「おはようございます、テオ様」 本来であれば旦那様と呼びかけるべきなのだが、そう呼ぶと泣かれるから名前で呼ぶ。 「おはよう。今日はね、ハーブティーがいいな」 「承知しました」  テオドールは寝起きにベッドでお茶を飲む。これを習慣にしてから格段にテオドールの寝起きがよくなった。  カモミールとローズマリー、ジンジャーをほんの少し。身体を温めるものばかりを入れたハーブティーを丁寧に淹れる。最後にはちみつを加えるのも忘れない。あまり熱いと飲めないから少し冷まし、火傷しないように厚手のカップに入れる。 「さあ、どうぞ」 「ありがと、クレマン」  テオドールは香りを胸に吸い込んでうふふと笑う。元気な日でも青白い頬にわずかに赤みがさした。薄い唇だけがぽつんと赤いから女の子だと思われることも多い。テオドール自身は自分を男の子だと思っている。だから、クレマンはテオドールをそのように扱っている。 「今日はね、お馬さんに乗りたいの」 「承知しました。朝食がちゃんと食べられたらお支度しましょうね」 「うん」  虚弱なテオドールを健康にしようと誰もが手を尽くしている。失敗もあるが、成功もある。乗馬はその一つだ。どうしても体調のすぐれないことの多いテオドールは運動を嫌う。姉兄に邪険にされたことも影を落としているのだろう。 だが、乗馬であれば喜んで体を動かしてくれる。のんびりしたポニーを必死に探した甲斐があるというものだ。  身体を動かし、体力を付ければ、病気もしにくくなり、治りも早くなる。いいことずくめだから、乗馬は毎日でもさせたいのだが。  テオドールはゆっくりゆっくり時間をかけてハーブティーを飲む。ゆうに三十分はかかった。それが日常だ。その間に髪を梳かし、羽組みをして翼を整える。小柄なテオドールよりも大きな翼は飛ぶこともできる。テオドールはほとんど飛ぼうとしない。  カップを片付け、顔を洗い、着替えさせる。今日は調子がよさそうだ。朝食はふんだんに用意させるが、彼が手を付けるのはほんのわずかだ。食べないから大きくならないが、無理に食べさせるわけにもいかない。  朝食の後は休憩も兼ねて勉強を教える。病弱だからと哀れんで教育を与えないのは愚かなことだ。なにしろテオドールはオランジュ侯爵なのだから。  昼過ぎ、一緒に馬にブラシをかけ、馬に乗せる。これが二人の日常だった。穏やかな、なにも変わらない日々。テオドールは確かに回復してきている。元気でいられる日も増えた。いいことばかりだ。 「クレマン様!」  主人が一人でポニーを歩かせるのを眺めていると召使が声をかけに来た。 「どうしました?」 「テオドール様にご来客です」 「奥様方でしたら断ってください」  板挟みになった時期がトラウマになってしまったらしく、テオドールは彼女たちに会うとひきつけを起こす。もう一年以上会わせていないから押しかけてきてもおかしくはない。 「奥様ではございません。フィリップ皇太子殿下です」 「殿下が?」 「はい。お忍びの様子で、供は一人きりです」  フィリップは多忙で、そうそう王宮を抜け出せない。だが、テオドールを溺愛している彼は時折こうして訪ねてくる。テオドールも彼を慕っているから問題ない。 「すぐにお連れ……いや、殿下をこちらにお通ししてください。テオ様が乗馬をしている姿を見れば喜ばれるでしょう」 「承知いたしました」  召使はすぐに去って行った。馬場をぐるりと回った少年が側に来た。 「なにかあったの?」 「殿下がお出ましです。こちらにお通しいたしますので、一緒に遊ばれては?」  テオドールはうれしそうに笑う。彼はフィリップに懐いている。自分を皇太子に選んだ幼子をフィリップは砂糖菓子のように甘やかしているから懐かないはずもない。 「テオ!」  上機嫌な声で呼ばれてテオドールは元気よく手を振る。手を振る先に輝くような黄金の髪をしたたくましい皇太子の姿がある。 「フィル!」 「今日は調子がいいんだな。馬に乗る姿も様になって来た」  テオドールはうふふと笑う。以前会ったときはまだ引き馬でおっかなびっくり乗っていたから、彼にはぐんと上達して見えたのだろう。 「今日はお暇なの?」 「あー、まぁ、暇ではないが、俺の翼と昼ご飯を食べる時間くらいはある」  彼がテオドールを俺の翼と呼ぶのは習わしから来るものだ。テオドールはそう呼ばれるのを喜ぶからことあるごとに彼はそう呼ぶ。同様にテオドールにだけ許された彼の呼び名が我が王。少年にはまだ難しいのかいつもぼくの王様と呼んでいる。オランジュ侯爵だけは皇太子のうちからそう呼ぶことを認められている。 「たくさんあるね」  テオドールの声がうれしそうに弾んだ。オランジュ家の別荘の中で一番王宮に近いが、多忙な彼は顔を出しただけで帰ってしまうことは多い。彼が多忙を極めているのは半年前に国王が病床についたせいだ。  自身を指名したオランジュ侯爵が死ぬと十年以内に王も死ぬ。不思議なことにそれが覆されたことがない。オランジュ侯爵より先に王が死ぬこともなく、どんなに若い王もオランジュ侯爵が死ねば死んでしまう。  だから、フィリップの治世が来たとしても長くはないと噂する者は多い。彼を指名したオランジュ侯爵は病弱で公の場に姿を現したことさえないせいだ。  その事実を彼がどう捉えているのか図りようはない。だが、彼は初めて出会った時からそうして己の翼を愛している。我が子とそう変わらぬ幼子をパートナーとして。  このままオランジュ家の血が絶えたら王家はどうなってしまうのだろう。オランジュ家の神秘が失われた王家は善政を敷けるのか。誰もが漠然と恐れている。  テオドールが表向き男児と公表されているのは混乱を避けるためだ。王に近いものほど、オランジュ家が彼で絶えるのだと諦めている。  ご機嫌でゲームに興じ、昼食を食べてくれたが、不意とフィリップの膝枕で寝てしまった。テオドールは体力がないから、昼寝が欠かせない。 「寝てしまわれましたか」  クレマンが抱き上げようとすると、フィリップに止められた。 「まだ時間がある。もう少しこのままで」 「承知いたしました」  クレマンはテオドールに薄掛けをかける。 「クレマン、父がもう持たん。近いうちに王宮に入ってくれ。特別日当たりのいい部屋を用意する」  クレマンはすっと目を伏せる。王の葬儀はオランジュ侯爵の務めだ。他の誰にも任せることはできない。 「承知いたしました。テオ様でなければできない儀式以外はこれまで通りアデラール様に依頼してもよろしいでしょうか?」 「もちろんかまわない。テオの負担はできる限り減らしてくれ。必要なものがあれば逐次請求を」  フィリップは深いため息をつく。 「もう少し持ってくれると思ったんだが……」  彼自身の準備は整っているのだろう。彼は二十代の後半。王の重責を担うのに早くはない年のころだ。二人の王子と一人の王女を設けている彼は国民に愛される王になるだろう。それを危ぶむものはない。  彼が思うのはテオドールのことだ。ちょっとしたことで熱を出し、簡単に寝込む。環境の変化に追いつけないことも多い。オランジュ侯爵としての責務にどうにか耐えられるようになるまで待ちたかった。それは彼のみならず、クレマンも思うところではある。  だが、時はもう、来てしまう。 「テオをもう少し隠していてやりたかった」  彼はテオドールの長い黒髪をやさしく撫でる。 「儀式以外で公の場に出る必要がないように手配する。君にわざわざ言う必要がないのは重々承知しているが、慎重に頼む」 「承知いたしました」  クレマンはテオドールが生まれるまでアデラールに仕えていた。アデラールとフィリップは同い年のライバルで、なにかと張り合っていた。ゆえにクレマンはフィリップとも長い付き合いがある。 「殿下もお体を大事になさってください。父としても、子としても、王族としてもお忙しいでしょうから」 「ありがとう、クレマン。状況が許せばまた来る」 「お待ちしております」  フィリップは足早に去って行った。 意図的に止めていた時がついに動き出す。
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