41人が本棚に入れています
本棚に追加
猫はピクリと耳を震わせた。そして、すくっと腰を上げると、目を丸くして私を見上げた。
「ん?どうしたの?…ふふ、可愛いね。やっぱり私、今日死ぬね。最後にあったかい温もりをありがとう」
私は再び立ち上がった。
「あの!」
後方で声が響く。高い女性の声だった。
私は舌打ちしながら先ほど止まったバンの方を見るが、相変わらずハザードランプを瞬かせて停まっている。日が暮れたばかりの片側2車線の道路は帰りを急ぐ車で溢れている。あの車じゃなかったら誰だ?
「あの、ちょっと待ってください!」
もう一度声が響いた。よく聞くと、その声は妙な残響を残しながら、周りの雑踏にかき消されない。頭の中に直接声が響いているような、変な感じだった。辺りを見る。やはり周囲には誰もいない。ただこちらを見つめる三毛猫がいるだけだ。
「こっちですよ、こっち。私、猫です!」
まさかと思った。私は欄干から手を離して三毛猫に向き直った。
「ああ、よかった、思いとどまってくれて」
猫は長い尻尾をゆらゆらと鷹揚に揺らしながらこちらに歩みる。
嘘だと思いながら、周囲を見るがやはり誰もいない。猫の丸い瞳だけが私を捕らえて離そうとしない。
「ちょっと待って、あなた。本当に私に話しかけてる?」
私は恐る恐る声を上げて訊ねる。
「じゃあこういう言葉遣いでもすれば信じてくれる?そう、吾輩は猫である。にゃあ」
なんて剽軽な冗談なのだろう。その大人びた余裕はむしろ、この奇妙な状況に妙な説得力を持たせている。
「いやいやいや、そうじゃなくて…え、うそ。これって、マジで…すごい」
「うふふ、猫に話しかけたのはあなたでしょう?」
大人の女性のような余裕な笑み。よく見ると意外としなやかに長い身体をしている。妖艶な瞳をたたえたまま、三毛猫は歩み寄ってくる。
「所で、あなたは本当に猫になる気はない?」
猫は私の前までくると、後ろ足を畳んで座りながら言った。
冗談のような事を真剣な声色で猫は言う。
なんだか、面白おかしくて早希は思わず笑ってしまった。
けれど、猫は月明かりのように怪しく光る美しい瞳で見つめてくる。吸い込まれてしまいそうな真剣な面持ちに私は思わず息を呑んだ。
「…は、はい」
猫に向けて、思わず敬語になってしまうが、少しも可笑しいと思えなかった。一瞬だけ、猫から畏怖すら感じたからだ。
「じゃあ決まりね、もしあなたが本当にそう望むのなら今から私と、魂の交換の儀式をしましょう」
猫になりたい。
暴力も、蔑みも凌辱もない、この苦しみから解放されるのであれば、なんでもよかった。義務とか社会だとか秩序だとか、面倒な同調圧力に縛られる人間の宿命も関係ない。
人が抱える息苦しい世界の外で呑気に伸びたり丸くなったり、いつでも寝ていられる存在になれたら、今度こそ私は幸せになれるかもしれない。
私は、そんな憧れの存在に手を伸ばした。
最初のコメントを投稿しよう!