(十五・二)雪と花

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(十五・二)雪と花

 ぽんっとひとつ肩を叩かれて、はっと目が覚めた。そして夢は終わった、と思った。目の前に、二人の警官が立っていた。さっと血の気が引いた。確かにもう、夢は終わったのだ。もう迎えに来てくれる人など誰もいない。もう母はいないのだから、もうあなたは。慌てて椅子から立ち上がった。 「どうか、しましたか」  警官の一人が尋ねた。あっ……答えようとして、けれど声が出なかった。声にならなかった。上手く呂律が回らなかった。寒い訳でもないのになぜか寒気がして、唇が震え出した。震えは止まらなかった。 「何か、ご用ですか」  不審に思ったのだろう、もう一人の警官が返答を促した。その時わたしは何を思ったのか、自分が幼い少年に戻ったような錯覚に陥った。母が迎えに来てくれるのだと、今わたしはそれを待っているのだと思った。あの少年の日のように、今にも母が交番に飛び込んで来て警官に謝ったり、大声でわたしを叱ったり、人目もはばからず強く抱き締めながら泣いたりしてくれるのではないかと。交番の窓から外を眺めた。家出したあの夜の、母の姿をこのクリスマスの横浜の街に捜し求めて。その時、ちらほらと白いものが見えた。しろい、ゆ、きが。わたしは我に返った。かあさん、ごめんな。おれのこと、ゆるしてくれな。かあさん、ありがとう、な。 「きのう、だいじな、おかあちゃんをころして、しまいました」  そう二人の警官に答えた時、わたしの脳裏にひとつの詩が浮かんだ。今まで詩など一度として書いたことのなかったわたしの。それは浮かんで、直ぐに消えていった。ひとひらの雪がとけてゆくように……。  抱擁あるいは横浜、まじめなやつはだめだなってため息ついている間に、夜が明けたらふらっと家を出て、どこか遠くへ行きたいなぁと思いながら、行くあてもなく始発電車が海岸線を通った時、あゝ船がいいなぁって横浜で降りて、それから一日中日が暮れるまで、桟橋で外国船を見ていた、けれど勇気がなくてそのまま雑踏に紛れ、駅前の交番の灯りを見たら帰りたくなった、少年の頃坊やはまじめでやさしい男の人になるねって、近所のおばさんたちが言っていたけど、まじめはだめなんだなぁって、まじめなやつがうまくいかない世の中なんだなぁ、まじめなやつはまっ先に自分を責めるから、苦しい人を見ると楽にしてあげたいと思うから、そんなやつはうまく生きてゆけないような世界なんだなぁ、ここはさって、交番のすみでぽんっとひとつ肩を叩かれて、はっと、目が覚めた気がした、きのう、ねたきりのだいじなひとをころし、ました、苦しみを抱きしめる方法を教えて下さい、誰かの苦しみを奪い取る抱擁のし方教えて下さい、おれは幸福より不幸の方が好きだと強がれる強さを下さい、まじめでも生きられる世界を下さい、苦しくても笑える奇蹟を下さい、おかした罪をつぐなうすべをおしえて下さい、夜が明けたらゆっくりゆっくり歩いてゆくから……。  雪が降っていた。横浜の街に雪が。「あゝ」と思わず声を上げた。船着き場に降る雪の姿が浮かんだ、海に降る雪が。セーラー服の杉本さんの頬に、海に流したクリスマスケーキに、うみねこの翼と侘びしげな鳴き声に、ランドマークタワーと大観覧車に、野良猫のくろとしろと子猫の毛に、山下公園と大桟橋とベイブリッジともう船出した外国船に、風俗街の消灯したネオンライトとゆきさんの透明なビニール傘に、伊勢佐木町のアーケード街に、京浜東北・根岸線の線路と電車に、石川町駅前の暗い中村川の川面に、飲み屋街の狭い路地と弾き語りの女の『哀愁のカサブランカ』に、ラヴホテル街の朝の静けさに、松影町の路上の老人と色褪せた毛布に、教会のステンドグラスと十字架に、公衆電話ボックスの窓ガラスに、横浜駅の地下道に聴こえた船の汽笛に、そして今わたしの頬に落ちた涙に、舞い落ちれと祈った。今降り頻る粉雪へ、すべての命にやさしく、ただやさしく舞い落ちてほしいと祈った。わたしの涙もいつかあの空に昇って、雪になれと。雪よ、そして春になったら花になれ。すべての命よ、花になれ。 (了)
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