(四・二)赤いランプ

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(四・二)赤いランプ

 人影のない暗い夜道を何とか歩いていると、突如目の前に眩しい光が広がった。ざわめき、人通りの賑わいも感じられた。それは商店街、伊勢佐木町のアーケード街の灯りだった。ここまで来たら、JR関内駅はもう間近だった。早い、いつの間にこんな所まで……。桜木町駅から余りにも、呆気ない程早く着いてしまった気がした。  恐らくアーケード街は凄い人波に違いない。夜とは言え、クリスマスなのだから。クラスマス・イヴ。今のわたしはそんなものとは、世界中で一番無縁な人間のように思えた。なのにこのまま歩いてしまえば、繁華街の中へと入って行ってしまう。咄嗟にわたしは、それを避けた。アーケード街から向きを変え、暗い夜道を国道の方角へと進んだ。それから国道を見付けると、今度は国道沿いに暗い道を歩いた。するとそのちょっと先に、ぽつんと点るひとつの小さな赤い光が見えた。光と言うか、ランプ。赤いランプだった。赤いランプ……。  それが何か、わたしは直ぐに分かった。警察の、交番の灯り。そこは駅前などに在る、小さな派出所だったのだ。どきっ。わたしはごくんと、生唾を飲み込んだ。当然のことながら、緊張した。寒さも何もかも忘れて、一瞬心が凍り付いたようになった。  どうしよう。勿論いずれ出頭、自首するつもりではいた。けれど今はまだ、行きたくなかった。正直、恐かった。さっきの公衆電話ボックスのガラス窓に映ったら、今のわたしはきっと血の気の引いた青ざめた顔をしていただろう。交番の中に入ってゆく覚悟は、まだ出来ていなかった。だって。だって、そうだ、まだ海を見ていないじゃないか……。あゝわたしはそれを、言い訳にした。海を見ると言うことを。そしてわたしは逃げるように、さっさと交番の前を通り過ぎたのだった。  通り過ぎながら恐る恐る振り返ると、交番の中を覗いてみた。誰もいなかった。机と椅子だけが、ぽつりと置かれていた。わたしはほっとため息を零した。とは言っても今警察から逃れた所で、気休めにもならないことは分かっていたけれど……。交番の中の質素な机と椅子を見たその瞬間、わたしはふっと或ることを思い出した。それは懐かしい幼年時代の出来事、交番にまつわるひとつの思い出だった。  昔まだ幼い少年の頃、季節がいつだったかは思い出せないけれど、貧乏な家が嫌だったのか、いつもひとりぼっちなのが寂しかったからなのか、或る晩わたしは、ふらあっと家を出た。家出。母はいつも仕事で帰りが遅く、その日も家には誰もいなかった。誰もいない家をさよならも言わず、飛び出したのだった。  あの時も今夜のようにひとりぼっちで、夜の街を宛てもなくぶらぶらと歩いた。ただ宛てもなく、彷徨っていた。しかしあの時は、人の良さそうな一人のおばさんが声を掛けてくれた。おばさんはそのままわたしを、近くの交番へと連れて行った。そしてさっき覗いたような交番の椅子に座らされたのを、覚えている。  警官にいろいろと質問された。どんなふうに答えたかは覚えていないけれど、兎に角母に何とか連絡が取れたらしかった。 「もうしばらくしたら、お母さんが迎えに来てくれるから、大人しく待っていなさい」 「はーい」  既にその時にはわたしはもう大人しくなっていて、借りて来た猫のようにお利こうさんで待っていた。そこはまだ子どものこと、初めての交番でしかも警官を目の前にすれば、誰だって萎縮してしまう。これは大変なことをしてしまったのだという気持ちで一杯になって、すっかりしょげ返っていた。そしてただひたすら、母が迎えに来てくれるのをじっと待っていたのだった。  わたしに声を掛けてくれたおばさんは、どうやら近所の飲み屋のママさんか何からしかった。交番からちょっといなくなったかと思うと直ぐに戻って来て、持って来たお菓子の紙袋を渡してくれた。中には、不二家のパラソルチョコレートとグリコのおまけ付きキャラメルが入っていた。その時のそのお菓子の美味しかったことと、交番の窓から見える夜の街のネオンの眩しさとを、なぜか今もはっきりと覚えている。
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