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(五・一)マリナード地下街
交番から遠ざかると、直ぐに国道の反対側に関内駅が見えた。海を見る、港に行くのなら、あっちへ移動しなければならない。国道の信号を渡るか、地下道を通って。地下道の方を選び、入口を探した。伊勢佐木町の商店街の方に歩くと、直ぐに見付かった。
地下道へと下りる階段は薄暗かった。丸で地獄にでも堕ちてゆく、そんな暗さだった。悪い予感、不安ばかり抱かせるような……。階段を下りても、地下の通りは薄暗いままだった。人通りも少なかった。わたしは関内駅の側に出る進路を探して、地下道を見回してみた。そこでわたしが見たものは、ダンボールだった。地下道の壁に沿って並んでおり、それは通りの端まで続いていた。恐らくダンボールハウス。ホームレスの人たちのものなのだろう。と言うことは、この地下道で暮らしているということなのか。こんな場所で……。
その事実は少なからずわたしに、ショックを与えた。けれど今のわたしに、ホームレスの人たちの境遇に想いを至らせる余裕はなかった。冷たいようだけれど足早に、わたしはダンボールの横を通り抜けた。ただその時ふと羨ましいと言う感情が、わたしの胸に湧いた。この地下道にダンボールを敷き、その中で暮らしている人々が、羨ましい、と。更に、出来ることならわたしもここにいたい。この人たちの中に混じって、生きてゆけたらどんなに良いか。そんなことが、胸の中をよぎった。しかし今のわたしは、あの場所にすらいられないのだ。この身を置く場所など、この世の何処にも有りはしないのだ。今のわたしには……。そんな絶望的な気持ちだけが、最後には残った。こうして後ろ髪引かれる想いで、わたしはダンボールハウスの通りを後にした。未練を断ち切るように、地下道の角を曲がった。
角を曲がると、突然地下は明るくなった。そこには眩しく輝くような商店街、マリナード地下街が広がっていた。今さっき見たダンボールの通りとのギャップは余りに大きく、丸で別世界のようだった。人の行き来も激しく、如何にも駅前の地下商店街らしい賑わいを見せていた。ブティック、CD店、バッグと靴店、高級時計と宝石店、フードショップなどが続き、年末の抽選会も催されていた。フードショップはマクドナルドやパン屋さん、弁当屋さん、定食屋さん、蕎麦屋さん、そしてラーメン屋さん……。ラーメン。わたしはその『サッポロ軒』と言う店の前で、ふと足を止めた。
「おにいちゃんは本当、小さい頃からラーメンが好きだったねえ」
なぜか突然母のわたしに対する口癖が、脳裏に甦った。そう言っていつも笑っていた母の面影、笑顔が……。正直今のわたしは、母のことを思い出したくなかった。少なくとも今夜のうちはまだ、思い出さずにいたかった。母の言葉と笑顔から逃れるように、わたしは咄嗟にサッポロ軒の中に入ってしまった。
腹が減っていないかと言えば、勿論空腹だった。家を出てから何ひとつ、飲み食いしていなかったのだから。けれど食欲は無かった。しかし今夜一晩の中で、いつなんどき激しい空腹に襲われるか分からない。わたしは不安を覚えた。空腹でふらふらになって、路頭で倒れるわたしの姿が目に浮かんだ。だったら今のうちに何か食べておいた方が、良いのかも知れない。そんな思いで、店に入った自分を納得させた。
店内は暖かく、体がすっかり冷え切っていたわたしには有り難かった。生き返った気がした。それに客も少なく、店の中は静かだった。TVも無く、単独の男が数人各々のテーブルで黙々とラーメンを啜っていた。わたしを気にする者など、誰もいなかった。ふう、良かったあ。極度に緊張していたわたしは、この店に入って正解だったと安堵した。さっさと窓側の隅のテーブルに腰掛けた。メニューを見てもこれと言って食べたい物は無く、食べられる物なら何でも良いと、ラーメンとチャーハンのセットを注文した。店員さんに頼む時、緊張し声も唇も震えていた。
注文が来るまで落ち着かず、店内や外の商店街の様子をそわそわと幾度も見回した。静かな店内には、料理を作る音だけがしていた。直ぐに料理は出来上がり、わたしの前に置かれた。わたしは合掌し箸を握るや、あっという間に平らげてしまった。熱かった、暖かかった。湯気に鼻水が垂れ、垂れる鼻水をすすりながら、懸命に麺を啜った。余程お腹が空いていたのだろう、がつがつと食らい付き、味を楽しむ余裕などなかった。最後はご飯粒ひとつ残さず、ラーメンのスープも飲み干した。喉も渇いていたのだろう、コップの水も矢張り一滴残さず飲み干した。
食事が終わると直ぐに勘定を済ませ、わたしはさっさと店を出た。あゝ、このラーメンとご飯の味は、一生忘れない。忘れることはないだろう。そんな感慨が込み上げて来た。
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