(一・二)招かれざる客

1/1
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ

(一・二)招かれざる客

 わたしは独身で五十八歳の中年男だった。以前はIT企業の正社員だったが、母親が認知症となった。父親はわたしがまだ幼い頃に離婚していて行方知れず。兄弟姉妹もいないため、わたしが介護せざるを得なくなり、止むなく退職した。  母の症状はどんどん悪化した。夜中徘徊もするし、直ぐに切れては物を投げつけ大声で喚き散らすから、隣り近所にも迷惑になる。兎に角何をするか分からないので、一日中付きっ切りでいなければならない。そのためバイトにすら就けない。これではとても生きてゆけぬので、貯金が尽き掛けたタイミングでこれまた止むなく生活保護を申請するに至った。 「働けるでしょ」  しかしなかなか首を縦に振ってくれない。福祉課の若い役人を相手に、窮状と母親の症状を切々と訴えた。 「それじゃ、親子で死ねと言うんですか」  必死に食らい付き、ようやく受理された。こんな訳で高齢の母と息子の二人で細々と介護生活を営みながら、何とか今日までやって来たのだった。  が今月上旬のことだった。二人の招かれざる客が、我が家を訪ねて来たのである。一人は借家の大家さんで、もう一人付き添って来たのが不動産会社の担当者だった。何をわざわざ二人揃ってやって来たのかと漠然とした不安に駆られながら、玄関先で応対した。  一戸建て平屋ではあるが、既に築三十年経過しており、家賃はそれ程高くはない。家賃の滞納など一度として無く、賃貸契約の更新も無事済ませており、何ら落ち度は無い筈だった。なのに、一体何の用だろう。わたしの心は曇り、気分は滅入った。こんな場合は立場的に弱いため、ついつい弱気と卑屈になってしまうのが、小心者のわたしの常だった。話の内容にもよるが、大概は良いように言いなりになってしまう。情けない男。 「坂原と申します」  口を切りそう名乗ったのは、不動産会社のわたしより少し年下といった感じの強面の中年男の担当者だった。大家さんは「大川」という小柄な高齢の男性で、会うのはこれが初めて。人の良さそうな地味な感じの人だった。大川さんは坂原さんが話をする間中ずっと申し訳なさそうに、わたしの方を見たり、俯いたりしていた。 「海野さん、本日参りましたのは……」  坂原さんの話はこうだった。近所からこの家に対して、多くの苦情が寄せられていると言う。苦情、もしかして……。わたしはドキッとし、直ぐに悪い予感に襲われた。母親のことだ、間違いない……。  隣り近所との付き合いがそれなりに有れば、母の病気のことも理解してくれているだろうし、騒ぎを起こしても多少の事は許してくれるのかも知れない。しかし残念ながらここは横浜という大都会の片隅であり、しかもわたしは没交渉。口下手で非社交的な人間だった。加えてこれはわたしの偏見、被害妄想かも知れないが、近所には短気だったり、我がままな老人が多いように普段から思っていた。それからわたしが独り身だったり、彼らからすればまだ若いのに働きもせず生活保護の世話になっているというのも、周りに良い印象を与えていなかったのかも知れない。 「その苦情というのが、実はお母様のことで……」  坂原さんはそう告げた。やっぱり、そうだったか。昼夜を問わず発せられる母の奇声、怒鳴り声……。それをいさめんとして、ついわたしの方も大声になる。血の繋がった実の息子のわたしですら嫌になるのだから、赤の他人様なら尚更のことだ。しかもそれが毎日毎晩とくれば、たいがいで嫌気が差す。たとえどれだけ温厚、寛容な人であろうと、ついつい文句のひとつもぶつけたくなるのが人情というもの。ましてや短気な老人たちと来れば、絶望的だ。  確かに近所の不評を買っていることは、わたしも薄々感じていた。誰だかは知らないが母が騒ぐ度、それに合わせるかのようにわざと窓のサッシや雨戸を激しくバタン、バタンと開け閉めしたり、何処からか、 「うるせえぞうーーーっ」  と声が発せられたり、これみよがしにドンドンと壁やドアを叩いたり……。そういったことが最近では日常茶飯事で起こっていたから。  しかしだからといって、わたしにはどうすることも出来なかった。母の症状が悪化はしても改善するなどという望みは一切持てなかったし、一軒一軒近所を回って事情を説明し頭を下げた所で、快く許してくれるとも思えない。却って火に油を注ぐことにはなっても、円満解決などということは望みようもないだろう。 「施設に預けたらどうですか?」 「病院に入院させろよ」  酷い人になると 「山奥にでも引っ越せ」  なんて言われても困る。わたしだってそんなことが出来るものなら、とっくの昔にやっている。しかし金がない。兎に角お金がないのだ。こればっかりはどうしようもない。だからわたしは下手に動かず、ただひたすら耐えて耐えて耐えうる限り、今の状況に身を任せて来たのだった。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!