(十四・一)無口な少女

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(十四・一)無口な少女

 船着き場から歩き出そうと思った。警察、具体的には昨夜の伊勢佐木町の交番を目指して。手すりに掴まり、もう一度海を見た。あゝ海を見るのも、これでもう最後になるかも知れない。そう思うと、もう少し見ていたい気持ちに駆られた。幾ら見ていた所で切りがないのは分かっていたけれど。それに寒さも辛かった。それでも、もう少しついもう少しと、見ていた。  もう少し、もう少しと潮騒を聴いていた。船着き場へと打ち寄せるさざ波の音を聴いているうちに、ふとあの唄が浮かんだ。 "Love me tender, love me ..."  そして突然、あゝ思い出したと心の中で叫んだ。少年の日の記憶、初めて横浜駅から港まで歩いた時の思い出が、鮮やかに甦ったのだった。  その時初めてこの唄を聴いたこと、その時一緒に歩いた相手がこの唄を教えてくれたこと、そしてその相手とは、中学一年のクラスメイトの少女だったことを思い出した。忘れもしない、姓を杉本さんと言った。杉本さんは無口な生徒だった。  それは中学一年の七月、一学期の終業式の日の午後のことだった。学校が早く終わって何処でどう過ごしたのかクラスのみんなと別れ、昼下がりの横浜駅の地下道をひとりで歩いていた。その時ばったりとセーラー服姿の杉本さんと擦れ違った。中学に入学して以来まだ一度も口を利いたことがなかったから、わたしはそのまま無視して通り過ぎるつもりだった。杉本さんは授業中も無口で、教師たちから「そんなことでは大人になってから苦労するわよ」と、度々注意を受けていた。  ところがその日その時だけは、なぜか杉本さんの方からわたしに積極的に話し掛けて来たのだった。吃驚したわたしは、地下道の人波の中で足を止めた。しかも杉本さんの言葉は予想もしない、意外なものだった。杉本さんの言葉は、こうだった。 「港に、行きたいんです」  ぽつりと、か細く震えるような声だった。その声を聴いたのも、もしかしたら初めてだったかも知れない。言った後杉本さんは、自分でも何でそんなことを言ってしまったのか、そんな戸惑った表情を見せた。恥ずかしそうに、必死に俯いていた。 「道、知ってるの?」  心配して尋ねると、杉本さんは悲しそうにかぶりを振った。残念ながら、わたしも知らなかった。 「ぼくも、知らない」  困ったように答えると、杉本さんは今にも泣き出しそうな顔になった。その時、ぼーっ。駅の喧騒に混じって、何処からか船の汽笛が聴こえて来た。驚いた杉本さんとわたしは、ふたりして目と目を合わせた。 「案外近いかもね、港」  わたしがそう言うと、杉本さんはほっとしたように一瞬だけ嬉しそうに笑った。何だか嬉しくなったわたしは、調子に乗って思わず言ってしまった。 「一緒に行ってみる?」  すると杉本さんの顔が、ぱっと明るく輝いた。杉本さんの頬っぺたはまっ赤だった。こっちまで頬が紅潮した。  こうして横浜駅の地下道の人込みの中を、港を目指してふたりの中学生は出発した。デート。もしもそれがデートと呼べるものなら、わたしにとって人生初のデートだった。そしてそれが現在に至るまでわたしの唯一の、従ってこのままいけば生涯で最初で最後のデートと言うことになる。  歩き出してからは、ふたりは黙々と歩いた。七月の横浜の昼下がりの街を、汗だくになりながら歩き続けた。わたしが先に歩き、杉本さんが後ろから付いて来た。途中道に迷って、通りすがりの大人の人に何度も道を尋ねた。みんな優しかった。丁寧に教えてくれた。そうやって何処をどう歩いたのか、日暮れ前に無事港に辿り着いた。場所は大桟橋だった。 「あそこ、あそこ」  はしゃぐようにわたしが告げると、杉本さんも嬉しそうに笑い返した。早速大桟橋に上って、ふたり並んで空と海と船を眺めた。夕日に染まる穏やかな港に、大きな外国船が停泊していた。わたしたちは潮風に吹かれ、潮騒に耳を傾けた。それまでずっと黙っていた杉本さんが、突然歌い出した。 "Love me tender, love me ..."  それは小さく細く震えてさえいたけれど、透き通った丸で天使のような歌声だった。そして初めて聴いた唄だった。tenderの意味すら、まだ知らないわたしだった。杉本さんにその意味を尋ねた。杉本さんは恥ずかしそうに答えた。 「やさしい……」  その声はやっぱり、かなしい位に震えていた。 「やさしい」 「うん、だからね」  それから少し間を置いて、杉本さんは続けて言った。 「やさしく、愛して……」  えっ。わたしはどきっとして、杉本さんの横顔を見つめた。杉本さんの頬っぺたはやっぱり、赤かった。 "Love me tender, love me ..."  杉本さんのその頬の色が海に映った夕映えのせいだと勘違いした少年のわたしは、そして『やさしく愛する』ことの意味を、大人になってようやく知った。なぜ無口な杉本さんがあの日あの時横浜駅で、わたしに港に行きたいと告げたのか。その訳に気付くのさえ手遅れだった、まだ余りに幼かった中学一年生の夏だった。  それから杉本さんはわたしには何も告げず、突然夏休みの間に転校していった。知ったのは夏休みが明けた九月、二学期の始業式の朝だった。転校先は聴いたことのない、遠い遠い見知らぬ町だった。  あの時大桟橋でふたり並んで、船出する前の外国船を見ていた。手を振りながら見ていた。気が付くと、隣りにいた筈の杉本さんの姿が見当たらなかった。ぼーっ。船の汽笛が鳴り、外国船が動き出した。まさか。わたしは焦った。もしかして杉本さんが、あの船に乗ってしまったのではないかと。どうしよう。兎に角外国船を追い掛けようと、桟橋を必死で駆け下りた。すると目の前に、杉本さんが立っていた。杉本さんは両手に、ふたつのソフトクリームを握り締めていた。暑さのためにソフトクリームは、既に融け始めていた。 「よかったあ」  大きくため息を零すわたしを、杉本さんは驚いたようにじっと見つめていた。やっぱり黙ったまま、今にも泣きそうな顔で。後には港を出てゆく外国船の、波の音だけがしていた。いつまでもいつまでも、潮騒だけが響いていた。 "Love me tender, love me ..."  夏の海がそう、歌い掛けているようだった。  船着き場へと打ち寄せる波は穏やかだった。杉本さんのことが気になった。今はどうしているのだろうか。今も無口な人なのだろうか。そして幸せだろうか。幸せであってほしいと願った。自分の分までも、などとはおこがましくて言えないけれど。ただ幸せであってほしいと、祈りたかった。
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