(一・三)立ち退き

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(一・三)立ち退き

 しかしそれもついに限界に達したということなのだろう。坂原さんは言い難そうに続けた。 「海野さん、そういう訳でわたし共としましても、非常に弱っておりまして、はい。長いこと住んで頂いて、それはもうとても有り難い事なのですが。大変恐縮ながら、矢張りご近所付き合いというのも、大変大事な事で御座いますから」 「はあ、確かにそうですが……」  わたしは不安と恐怖に怯えつつ、何とか声を絞り出し、俯き加減で零した。そう答えるので精一杯だった。不安と恐怖。何に対するそれかと言えば、家を出て行ってくれ、という要請へのそれだった。しかし無情にも、坂原さんは続けた。 「そこで大変申し訳ないんですが、大川さんとも何度も話し合いを持ちまして」 「はい」  その先は聞きたくない、出来るなら避けたい、逃げ出したい、耳を塞ぎたい。わたしはそんな心境でしか、あり得なかった。しかし坂原さんは、冷酷にもこう告げた。 「本当に言い難い事なのですが、海野さん。何とか可能な限り早いうちに、御退去、願えませんでしょうか?」  御退去……。 「えっ」  恐れていた通りの話だった。あゝ遂に来たか。一瞬で目の前がまっ暗になった。さあーっと血の気が引いて、自分でも顔が青ざめるのが分かった。生きている心地がしなかった。いや、もうさっさと死んでしまいたかった。  勿論強制ではない筈で、断ろうと思えば断れる、拒もうと思えば。そうも思ってみたけれど、出来なかった。 「勿論まだ契約の途中ですから、立ち退き料と申しますか、それなりの補償はさせて頂きます。ですので何とか、ご検討願えませんでしょうか」  坂原さんは深々と頭を下げ、その隣りで大川さんも同様に本当に申し訳なさそうに、こんなわたしのために頭を下げている。その姿が余りにもかなしくて、泣きたい位にかなしかったもので。どうにも断ることが出来ず、断り切れずについ、出来るか分かりもしない癖に、その場を取り繕うかのようにわたしは渋々そして空々しく答えていた。 「分かりました。では何とか、転居先を探してみます」  するとほっと安心したように、二人は揃って再び頭を下げた。 「本当にすいません。ありがとうございます、海野さん」 「でも急な事なので」 「分かってます。半年位以内に何とか」 「半年ですか。じゃ、やってみます」 「では何卒宜しくお願いします。ご連絡をお待ちしております」  その場は何とかそれで、二人にはお引き取り願った。  ひとりになった。ひとりというか、母と共に残されたわたしは心底孤独を感じた。この広い世の中、その片隅でたったのひとりぼっち、完全に孤独だった。本当に困った。どうしよう、どうしたらいいのだろう。本来なら、母に相談したい所だが、その母親が悩みの種とあっては、どうにもならない。  さっき強引にでも断っていたとしたら……。しかしそれも考えてみれば、契約期間までのこと。いずれにしろ次の更新は無いのだから。だったらおんなじことではないか。結局引っ越す以外もう、どうにもならないのだ。しかし先ず、その引っ越し費用が無い。金が無い。生活保護の担当者に相談すれば、何とか援助してもらえるかも知れないが……。  それはいいとして、問題は物件だ。さっきは「何とか探してみます」などと苦し紛れに答えたが、期限は半年。はたして新しい転居先など見付かるだろうか。先ず家賃に制限がある。どうしても低く抑えなければならない。独り身ならともかく、母も一緒だから大変だ。それでも何とか、物件は見付かるかも知れない。  けれどその場所にだって矢張り、本当に山奥でもない限り、隣り近所というものは存在するのだ。だったら、結局同じ事の繰り返しになるのではないか。最初のうちはいいが、そのうち母親のことが問題になるに決まっている。近所迷惑、そして苦情、嫌がらせ……。  つまり絶望的なのだ。いや絶望だ。そもそもわたしたち親子には、もう行き場所なんて何処にもないのだ。これが運命ってやつなのだ。きっとわたしたちの運命なのだ。だから何をやっても、もうどうにもならない。弱った、弱った。参った、参ったなあ。ため息しか出て来ない。頭を抱え込んだ。わたしの心は、重い絶望だけで覆い尽くされていた。  それまでただでさえ母の病気とその介護、生活の貧しさ及び隣り近所との軋轢。そんな中で日々、心身共にぎりぎりの状態で何とか生きていたわたしだったのに。今そこに新たに、更に困難がひとつ加わった訳で。漠然とではあるがわたしは生きていること、生きてゆくことに、限界を感じた。限界……を、感じてしまった。もう無理だ、もう何もかも。もう、おしまいだ。もう、これまでだ……。  そしてその思いは日に日に強く、重くなる一方だった。それでも何とか一日また一日を乗り越えながら、生き延びた。けれど遂に本日、十二月二十四日が来たのだった。
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