(十四・二)公衆電話

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(十四・二)公衆電話

 横浜の街はもうすっかり明るくなっていた。交番、そうだった。現実に引き戻された。交番に行かなければならないのだ。じゃ、もうそろそろ行きます。回想の余韻の中にまだ残る杉本さんの、少女の面影に向かって心の中で呟いた。船着き場の手すりから手を離し、石段を上った。石段を上り切って、海を振り返った。  水平線の彼方を見ると、空はやっぱりどんよりと曇ったままだった。何だか雪が降るような気がした。今にも雪が降り出すのではないか、そんな気配だった。雪、風俗街のゆきさんの雪、粉雪の雪……。雪が見たいと思った。どうしても雪を見ておきたいと。もしかしたら、これが最後になるかも知れないのだから。海に降る雪が見たいと思った。けれどまだ雪にはならなかった。まだ雨も雪も降らず、ただ灰色の曇り空のままだった。  雪が見たい、出来るなら見ておきたい。どうしようか迷った。もう少しここで待っているか。それともそんな感傷などきっぱり諦め、さっさと交番へ向かうべきか。本当に雪が降るのか、確証は何ひとつない。いやむしろ首都圏で、クリスマスに雪が降ることなど珍しかった。けれどどうしても待ちたかった。せめてひとひらの雪をこの目にするまで、或いは雪でなく冷たい雨のひと滴が降り出すまで。そしたらもう諦められるから、もう何も思い残すことは無くなるから、もう迷うことなくまっ直ぐに警察へと向かうから。  それにしても寒かった。待つのは良いけれど、ここは余りにも寒過ぎる。そこでベンチの端の、公衆電話ボックスに飛び込んだ。寒さに耐えかね、と言っても寒いことに変わりはなかったけれど。潮風を防げる分、幾分ましと言う程度だった。公衆電話ボックスのガラス越しに雪を待ちながら、電話機を眺めた。  ふと誰かに電話したくなった。誰かに、そんな相手などもう誰もいなかったけれど。そっと受話器を上げてみた。耳に押し当ててみた。冷たかった。受話器の向こうから、波の音が聴こえて来る気がした。いや波音だけじゃない。横浜の音が聴こえる、そんな気がした。横浜の音とは、横浜の街の音が。一晩彷徨い続けた横浜の夜の音、クリスマスイヴの土曜日の夜からそしてクリスマスの日曜日の朝にかけて、その間ずっとこんなわたしをやさしく包み込んでくれた、そっと抱き締めていてくれた、この横浜の夜と街の喧騒と呼吸と鼓動とが聴こえて来るようだった。いや確かに震える程に、わたしの耳に聴こえていた。  ため息で曇った窓ガラスの、白いもやもやを指で拭き消した。ガラス窓も冷たかった。透明になった窓ガラス越しに海を見た。灰色の海。凍り付くような、今にも雪が降り出しそうでけれど降り出さない。そんな冬の海をぼんやりと眺めていたら、やっぱり誰かに電話をしたくなった。誰かに電話がしたかった。無性に誰かの声が聴きたかった。受話器の向こうの海、受話器越しの横浜の街や夜に電話を、掛けたかった。もしもし、と震える声で受話器を握り締めながら、あの日の杉本さんに、お元気ですか、ソフトクリームおいしかったです、と言いたかった。けれどみんな叶わぬ願いだった。  凍えた手でゆっくりと受話器を下ろした。受話器の向こうの波音に、受話器の向こうの横浜にそしてそっと別れを告げた。寒さを堪え雪を待っていたけれど、雪はやっぱり降りそうになかった。公衆電話のガラス窓越しに、微かに人々のざわめきが聴こえて来た。いつのまにかちらほらと、人影が見え始めていた。あゝ最早これまでと、静かに雪を諦めた。雪を諦め電話ボックスを出て、ヒュルヒュルと潮風が全身の肌を刺すのに任せた。そしてやっと船着き場を後にした。海に別れを告げた。海と冷たい潮風と、もういないうみねこに別れを告げた。  トンネルを抜け、イルミネーションの消えた大観覧車の横を通り過ぎた。動かない日本丸の横を通って、桜木町駅の駅前広場まで戻った。駅前にはもうたくさんの人がいた。人波に揉まれながら、昨夜と同じように駅の反対側へと出た。それからまた昨夜歩いた道を辿った、伊勢佐木町の交番のあの赤いランプを目指して。とぼとぼ、とぼとぼと朝の澄んだ空気の中を、相変わらず白い息を漏らしながら歩き続けた。  寄り添い歩くカップルや散歩する老夫婦、ジョギングする男性などと擦れ違った。そこにあるのは、日曜日の朝だった。紛れもない何処にもある普通の、冬の寒い日曜日の朝だった。普通の人々にとっては確かに何でもない、いつものありふれた日曜日の朝の風景に過ぎなかった。そんな普通の人の普通の朝が、今のわたしには掛け替えのないものに思えた。電車も既に動いていて、京浜東北・根岸線に追い越されたり擦れ違ったり。そんな電車の音さえも、今は懐かしく思えてならなかった。いとおしくて仕方がなかった。もしかするともう電車に乗ることも、あんな音に接する機会も無いのかも知れない。そんなことを一々考えては、感傷的になりながら歩いていた。  昨夜歩いたお陰か道に迷うこともなかった。あっけないほどあっさりとまっ直ぐに、交番の前まで来てしまった。目印の赤いランプは陽が昇ったせいか、消えているのか灯っているのかすら、分からなかった。
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