(十五・一)交番

1/1
11人が本棚に入れています
本棚に追加
/32ページ

(十五・一)交番

 ところがいざ交番を目の前にすると、たちまち弱気になって足がすくんだ。反射的に逃げるように、さっさと交番の前を通り過ぎてしまった。通り過ぎたところでもう行く場所など何処にもないこと位は、ちゃんと分かっていたけれど。この広大な横浜の何処を探したってもう、逃げる場所も隠れる場所も帰る場所さえも、在りはしないのだから。もう昨日という日は戻っては来ず、もうやさしい横浜の夜は明けてしまったのだから。  交番を通り過ぎはしたものの、完全に逃げた訳ではなかった。一先ず交番から少し離れた街角の、電柱の陰に身を隠した。そして交番の中の様子を窺った。人影は無く丸で昨夜ちらりと覗いた時そのままに、ただ机と椅子だけがぽつんと置かれているばかりだった。勿論奥の部屋には、誰かいるのだろう。どうしよう。さあ、どうしたものか。さんざ迷った。迷ったけれど、今更迷った所で仕方のないことだとも分かっていた。ただ勇気が無かった。それだけのことだった。  時間が経てば経つほど、立場が悪くなるとも思った。そうだ、こんなことは早ければ早いに越したことはない。警察はもう気付いているだろうか。隣り近所で誰か、不審に思って通報した人がいるのではないだろうか。何しろあんなに毎日騒々しくしていたのが、昨日からぴたりと鳴りを潜めてしまったのだから。おかしいと思わない方が変だ。しかしもしかしたら、病院にでも行ったと思って、実はまだ誰も気付いていないかも知れない。何しろここは大都会、横浜なのだから。世間や隣り近所は何もなかったように、ただ穏やかにクリスマスイヴからクリスマスの朝を迎えただけなのかも知れない。  しかしだからと言っていつまでも、こんな所で愚図愚図している訳にもいかない。さあ、勇気を出せ。そう思った時、船着き場で見たうみねこのことを思い出した。そして野良猫しろの子猫のことを。そうだった。ごくり。生唾を飲み込んだ。遂に交番へと引き返す決心をした。引き返し、もう迷うことなく真っ直ぐに、交番の中へと入って行った。 「すいませーん」  何とか声を張り上げて、恐る恐る呼んでみた。ところが返事がない。予想外のことに戸惑った。これでは決心が鈍ってしまう。焦った。どうしよう。 「あの、すいません。すいません、誰かいませんか」  何度も呼んでみた。けれどやっぱり、何の反応も返っては来なかった。緊張していただけに、力が抜けた。早く誰か出て来てくれないか、早く来てくれ。本当に決心が鈍らないうちに、また逃げ出したくならないうちに、お願いだから。  けれど誰も現れなかった。パトロールにでも出ているのだろうか。無防備、無用心だなあ。のん気なものだなあと、ため息を吐いた。緊急事態の時どうするのだろう、などと思いながら交番の中を見回した。殺風景だった。けれど暖かい。暖房が効いているようだった。生き返ったような気がした。そのまま立っているのが辛くて、椅子に腰を下ろした。  座ってしまうと直ぐに睡魔に襲われた。こんな時にこんな場所でと思ったけれど、眠気には勝てなかった。そのうち誰か戻って来るのではないか。その時起こしてくれるのではないか。逃げる訳ではないのだから、ここは交番なのだから。大丈夫、何も心配しなくていい。ここで大人しく、待っていればいいのだ。ここで待って……。そう思いながら、うとうとし出した。窓の外の景色を眺めていた筈なのに、景色は何もかももう薄らいでぼんやりとして。そのままとうとうわたしは、交番の中で眠ってしまったのだった。  また夢を見た。夜、そこは交番だった。家出して補導されたあの幼い少年の日の。交番の椅子に座って、ぼんやりと窓から見える夜の街のネオンライトを眺めていた。母が迎えに来るのをじっと待っていた。ネオンライトの明滅をただ宛てもなく数えながら。数えてはまた一からやり直し、幾度もそれを繰り返した。不二家のパラソルチョコレートとグリコのおまけのおばさんはもう帰っていって、交番の中はひっそりと静まり返っていた。不安と寂しさとで胸を一杯にしながら、母が来るのを背中丸めただひたすら待ち続けた。遂に母の姿が、交番の窓の向こうに現れた。母は息を切らし血相を変えて、交番に飛び込んで来た。警官が尋ねた。 「お母さんですか」 「はい。うちの子が、大変申し訳ありません」  ぺこぺこ謝っていたかと思うと、母はいきなり怒ったような顔でわたしを睨み付けた。恐ろしさに誤魔化すように笑ってみせたけれど、母は大声でわたしを叱り出した。 「何してんの、こんな所で。お母さん、てっきりあんたが交通事故にでも遭ったかと思って、ずっと心配してたんだよ」  そして母は人目もはばからず、そのまま思い切り強く抱き締めて来た。強く抱き締め、ぼろぼろと泣き出した。恥ずかしかった。恥ずかしかったけれど、わたしも泣いていた。わんわんわんわん母と一緒に、母の胸の中で泣いていた。  交番を出ると母とふたり並んで、暗い夜道を黙々と家路を辿った。空を見上げるとそこには、満天の星が瞬いていた。美しいと思った。何て綺麗な空なんだろう、どうして夜の空はこんなに美しいんだろう。その中でも綺麗にひと際大きく並んで輝く、三つの星があった。 「あれは、オリオン座だよ」  母は空を指差し教えてくれた。母は笑っていた。もう泣いても怒ってもいなかった。ごめんなさい。そう言いたかったけれど、上手く言えなかった。上手く言えずに、ズボンのポケットに手を突っ込んでいた。ポケットに手を突っ込み、ずっとオリオン座を見上げながら歩いた。ズボンのポケットに手を突っ込んで、ずっとオリオン座を……。そうか、だからあの夜は確かに冬。家出したあの夜は、冬の夜に違いなかった。
/32ページ

最初のコメントを投稿しよう!