(二・一)再び十二月二十四日

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(二・一)再び十二月二十四日

 はっとして我に返った。どれだけの時が過ぎたというのだろう。一瞬にも思え、百万年にも感じられた。  古びたカラーボックスの上の母のお気に入りだった、となりのトトロの置き時計。その僅か単三電池一本で刻み続ける秒針が、さっきから丸で刃(やいば)の如くわたしの耳に、いやこの小心者の心臓に突き刺さっていた。突き刺さり、突き刺さり、そしてとうとうわたしを、我に返らせたのだった。  わたしの顔は青ざめ、きっと死人のような人相をしていたに違いない。加えて安物の電気ストーブの熱だけで辛うじて暖を保っていた母の部屋は冷え冷えとしており、わたしは全身で身震いしていた。寒い、兎に角寒くて堪らない。このままでは凍え死にそうだ。いや凍えてでも死ぬことが出来れば、それはそれで本望というものではあったのだが……。  しかし今更こうして我に返ってしまった以上、そんな戯言など言ってはいられない。この冷酷な、もうどうやっても覆すことの出来ない、この重たい現実の前では。わたしはただの、ただの無力な……。いやそんな悲観し、卑下している場合ではない。兎に角このままではいられないのだ。いつまでもこうしている訳にはいかない。何とかしなければ、何とかしなければと、わたしの中のわたしが叫んでいた。早く何かしなければならないのだと。しかし何をどうすればいいのか、見当もつかない。わたしは焦った。混乱し、パニックになっていた。一体何をすればいいのだ……。  そうだ、警察だ。はっと、いや、やっとわたしは気付いた。思い出した。こういう時は、警察に連絡するものなのだ。一一〇番、警察に連絡しなければならなかったのだ。早く連絡しなければ……。電話だ、一一〇番だ。一一〇、この数字だけが今この世で天涯孤独のわたしと現実の世界をつないでくれる、唯一の救いのように思えた。そうだ、もう恥も外聞も無い。ただただ一一〇番して、助けて下さい、わたしを助けて下さいと懇願するのだ。そうわたしの中で急かすわたしの声に突き動かされ、わたしは動いた。ようやく、それまで石のように固まっていたわたしがやっと。  わたしはポケットから携帯電話を取り出し、握り締めた。生活保護を受けてはいたけれど、加入電話を既に廃止していたため、代わりに最低限の連絡手段として携帯電話を持っていた。本当に通話機能のみでネット環境など無く、よって典型的な情報弱者だった。早く一一〇番を……。逸る気持ちを抑え、わたしは携帯電話の番号を押した。しかしいざとなると恐くなった。恐くなって指が震えて、発信ボタンを押すことが出来なかった。何してるんだ、早くしろ。一刻も早い方がいいんだから、さっさとやれよ。時間が経てば経つ程、いろんな意味で立場も状況も悪くなってしまうんだから。お願いだから、早くしてくれ。頼む、早くしなければ……。  頭ではそう分かっていても、どうしても出来なかった。少なくとも今は出来ない。何処かで必ずやるから、後で、もう少し経ってから……。そんな言い訳がましいことを考えたり呟いたりしながら、結局一一〇番出来なかった。仕方なくわたしは諦めた。今、ここでは無理だと。諦めて携帯電話をズボンのポケットにしまった。そしてわたしは、それからわたしの頭に浮かんだことは、『逃げる』だった。ここから、この部屋、いやこの家から逃げ出すことだった。その時わたしには、それしか思い付かなかった。
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