(三・一)横浜駅

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(三・一)横浜駅

 気付いたら、駅前に来ていた。駅。家から最寄り駅の京浜急行線の金沢文庫駅。いつもと変わることなく、ひっきりなしに人が行き来していた。その中でわたしはしばし、ぼーっと立ち尽くした。何処か見知らぬ国に迷い込んでしまった、異邦人のように。しかしそこは確かに見慣れた、いつもの駅前だった。こんな所でいつまでも、ぼやぼやしている訳にはいかない。隣り近所の人間に、見られてしまうかも知れないじゃないか。よし、折角ここまで来たのだから、電車に乗って何処かへ行ってしまおう。  そう思い付いたわたしは、財布の中を確かめた。無職のわたしに定期などない。切符代位は有りそうだった。他にも紙幣が数枚……。券売機の前に立った。さて何処へ行こう。遠くへ、見知らぬ街へ、そして楽にほんの一瞬でも楽になれる場所ヘ……。そう思ったけれどここは愚図愚図迷わず、先ずは横浜駅まで出ることにした。そこから先は、その時また考えよう。  切符を購入しようと券売機を操作する時、指が震えていた。寒さのためと、緊張のためだった。何とか切符を手にすると改札を通り、まっ直ぐホームに下りた。日暮れ時しかも土曜日で、横浜駅方面上りのホームに人影は少なかった。それでもわたしは、人目が気になった。誰かに見られているような気がして、落ち着かなかった。と言うより恐かった。実際びくびくし、早く電車が来てくれないかとそわそわしながら待っている有り様だった。早くこの場から立ち去りたいという思いは、家の中にいる時と変わらなかった。  その間に日は暮れ、夜の帳が街を覆った。灯り出した街灯とタクシーのライトが、ホームから見えた。何とも言えない寂しげな冬の夜の景色だった。遂に電車が来た。これほど電車が来るのを長く感じたことは、今迄なかった気がする。わたしは直ぐに飛び乗った。けれどドアが閉まり電車が動き出してから、それが『普通』だと気付いた。これでは各駅停車で、のろのろと横浜駅まで行かなければならない。しまった、と思ったが後の祭り。兎に角こうして家と家の在る街から、わたしは遠く離れたのだった。  電車の中はがらがらだったが、わたしは座らずドアの横にじっと突っ立ていた。座るのが恐かった、人と人との間に座るのが。当たり前だけれど、他の人は何事もないように普通にしている。それが不思議な気がした。一体わたしは何をしているのだろう、こんな所で。違和感しかなかった。ぼんやりと電車の窓を流れゆく街灯り、光の連なりを眺めていた。ただそれしか、やることがなかった。そしてそれなのに、わたしの目には何も映ってなどいなかった。わたしの心には何も。  相変わらず気持ちは落ち着かず、何かに急き立てられるように焦っていた。分かってはいたものの電車は各駅停車なのだから、いちいち次の駅で停まる。その度わたしは苛々しながら、じっと発車を待つしかない。それは厳しい精神修養にすら感じられる程の苦痛だった。そんな今のわたしには、横浜駅に着くことだけが唯一の希望だった。そこに着いたからといって、何かが変わる訳でもないのだが……。  しかしその唯一の希望も、いざその横浜駅を目前にした瞬間、残念ながら呆気なく潰えてしまった。京急線が横浜駅のホームに着くと、狭いホームに溢れんばかりに並ぶ客、群衆の姿が嫌でも目に入って来たからだった。その窮屈極まりない光景は、絶望的にすら感じられた。逃げ場のない蟻地獄……。  なんて人の数だ。土曜日なのだから仕事帰りでなく、遊びの客なのだろう。世はクリスマスなのだから、仕方がないのか。しかし何もかも嫌になってしまう位の人の多さに、わたしは言葉も無かった。なのに電車は無情にも今まさにそのホームに停まり、ドアを開けるのだった。降りるしかない。迷う間もなくわたしはさっさと下車した。そして同じように下車した人の波に揉まれながら、ホームの階段を下りそのまま改札を出た。  そこはJR始め地下鉄、東横線、相鉄線との連絡通路だった。かつ西はダイヤモンド地下街ヘ、東はそごう百貨店とつながる、横浜駅地下のメインストリートでもある中央連絡通路。従ってわたしの目の前は、人波で溢れ返っていた。ぼけっと突っ立ていたら、今にも飲み込まれてしまいそうな人の渦。殺気立ったような人の流れに、足がすくんだ。とてもそんな中には、入っていけない。わたしは逃げるように、通路の中央にあるキオスクの壁付近まで走った。そして壁に凭れながら、呆然と周囲を見回した。  兎に角何処を見ても人、人、人。絶え間なく押し寄せては、引いてゆく人の足音。丸で戦場のような人の波また波が、いつ終わるとも知れず続いていた。その勢いに圧倒されながら、ただわたしは無力に立ち尽くしていた。折角横浜駅まで、出て来たというのに……。これじゃとても、楽になんかなれそうにない。さあ、これから何処へゆこう。いやこれから一体、どうしたらいいのだろう。クリスマスイヴの土曜日の夜、荒れ狂う巨大な雑踏を前にして、わたしはただひとり途方に暮れるしかなかった。
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