(三・二)船の汽笛

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(三・二)船の汽笛

 しばらく横浜駅の中央連絡通路でぼけーっと突っ立っていたけれど、遂にわたしは行き先を決めた。切っ掛けは、船の音だった。船。船の汽笛が、不意に聴こえたような気がしたからだった。絶え間なく続く人波のノイズに混じって、遠く何処からか幽かにけれど確かに船の汽笛が。船、その時白くて大きな外国船のイメージが、さっとわたしの脳裏に浮かんだ。外国船、それが今まさに青い大海原へと、船出しようとしているのだろうか。いいなあ、羨ましい。わたしは急に、船に乗りたい、あゝ船がいいなあ、どうせ遠くへ行くのなら、船が……。そんな気持ちに駆られた。そんな想いがわたしの心を、無性にとらえたのだった。  そう思うと、もう行く先は決まったようなものだった。船、それも外国船のいる場所、港。あゝ港が見たいなあ、いや海だ。海か。そうだ、どうして今迄気付かなかったのだろう。よし、海に行こう。横浜の港、海へ。……もしかしたら、これが見納めになるかも知れないし、海を見るのも……。そう思ったら俄然どうしても行かなければ、という想いが弥が上にも募った。そしてわたしは、海に行くことに決めたのだった。  横浜の海、港と言えば、JRの京浜東北・根岸線に乗って、関内駅で下りるのが一番近い。けれど今のわたしに、電車に乗るという選択肢はなかった。浮かばなかった。最初から歩いてゆくつもりだった。関内駅までなら、横浜駅から桜木町、関内の二駅。歩こうと思えば歩けない距離ではない。タクシーとかバスとか、それも全く考えなかった。  歩き出そうとする前に、けれど不意に昔の記憶が甦った。少年の頃、誰かと二人だけで港に行った覚えがあったのだ。しかも横浜駅から港まで、確か今と同じように歩いて行ったのではなかったか。そうだった、確かにそんなことがあったなあ。懐かしさが込み上げて来た。けれど生憎その時の相手が誰だったのか、上手く思い出せなかった。そのことが無性に気になって、わたしは仕方がなかった。  兎に角先ずはこの連絡通路を抜けて、横浜駅の外へ出なければならない。わたしは恐る恐る一歩を踏み出した、目の前の人波の渦の中へと。そして人の海に揉まれながら、出口目指してひたすら歩いた。方角的には海沿い、東口へと。何とか無事人にぶつかることなく、ようやく通路の終わりへと差し掛かった。そこで進路は、三方向に分かれていた。まっ直ぐ行けば、そごう百貨店の地下へと続く階段。左右なら、どちらでもそのまま外へ出られる。わたしは迷わず外に出ることを選んだ。右に曲がって歩くと、直ぐに表ヘ出た。そこはもうすっかり暗かった。横浜の街はもう、完全に日が暮れていた。
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