(三・三)Love me tender

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(三・三)Love me tender

 立ち止まり見上げると、美術館か巨大な船かと思うようなそごう百貨店がでんと構えていた。目の前を国道一号線が走り、車の赤いテイルライトの波が連なっていた。国道沿いに街灯やビルや商店のイルミネーションが瞬いてはいるものの、歩行者の姿は殆ど無く師走にしては寂しい佇まいだった。国道の左手が東神奈川方面、右手がみなとみらい(MM)21方面。わたしは右に向かって、とぼとぼと歩き出した。  冷たい浜風に吹かれた。ふう、寒い。孤独と寒さの中、わたしは宛ても無くただひたすら歩き続けた。国道の両側には建設中の物も含め、高層ビルや高層マンションが建ち並んでいた。ヒュルヒュルと吹き過ぎる木枯らしの冷たさに、つい足を止めた。その時不意に、唄が口を衝いて出た。古い古い唄だった。ぶるぶるぶるっと震えながらジャンバーのポケットから取り出した手袋をはめ、マフラーを耳を隠すように首に巻いた時だった。  "Love me tender, love me ..."  初めてその唄を聴いたのはいつだったか、何処で聴いたのか、またその時そばに誰かいたかも、思い出せなかった。しばしそのまま唄を口遊みながら、再び歩き出した。  歩き続けていると国道からは逸れて、川が見えた。その川に沿って幾つも小さな橋を渡って先に進んだ。暗い川の面には街の灯りが映ってゆらゆら揺れていた。更に歩き続けると再び国道が現れた。国道に沿ってまた歩いた。歩いているうちに体が暖まって来たのか寒さが薄らいだ。それでも吐く息は白い。国道沿いの通りは電気の消えたオフィスやマンションが建ち並んでいるだけで、相変わらずひっそりとしていた。それに見上げると高速道路が空を覆うようにまっ直ぐに走っていて、辺りは全体に重々しく暗かった。国道はと言うと渋滞した車の列が長く続いてはいるものの、こちらもそんなに騒々しくはなかった。華やかなイメージの横浜とは思えない、どちらかと言うと草臥れたような景色に身を置きながら歩いていると、大きな歩道橋の前に差し掛かった。  見上げると横を京浜東北・根岸線の電車が走ってゆく姿が見えた。あの電車に乗ったらもっと早く行けたのだと思いながら、丸で電車を追いかけるように歩道橋に駆け上がった。歩道橋の上で足を止めると、まだ背中の見える電車を目で追い掛けた。そして電車を見送った。電車は直ぐ近くで停車した。あゝ、あそこが桜木町駅に違いない。道に迷わないように、目印として覚えておくことにした。けれどそんなことをするまでもなかった。なぜなら夜空を見上げれば、そこに幾つも目印が灯っていたから。地上70階建てのランドマークタワーと隣接する高層ビル群の灯りが、いかにもクリスマスイヴの佇まいで灯っていた。こっちへおいでと誘うように瞬いているようだった。白い息で夜空を曇らせながら、しばらくぼんやりとそれら夜空に瞬く人工的な灯りの明滅に見とれた後、ゆっくりと歩道橋を下りた。  歩道橋を下りて、再び人影の少ない歩道を歩き出した。更に先に進んでゆくとじきに通りにも人々の姿が増え出した。それは打ち寄せる海の波のように、やがて大きな人波となった。賑やかな声があちこちで木霊し、気付いたらいつのまにかランドマークタワーの麓まで来ていたのだった。どんなに見上げても、ただただ果てしなくその建物は高かった。ここまで来れば、桜木町駅はもう直ぐ目の前だった。横浜駅から思ったよりもそんなに遠くは感じなかった。何にも急ぐような用事がある訳でもないからなのだろう、むしろ呆気ないほど早く着き過ぎてしまった位に思った。 "Love me tender, love me ..."  見上げると街の灯りも、摩天楼の灯りの波も夜空の星も、"Love me tender, love me ..."そんなふうに唄っているような、そんなやけに寂しげな夜だった。街はクリスマスイヴだというのに。
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