プロローグ

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プロローグ

『会社を辞めた? 上司に暴力を振るって?』  電話口の母の声音が、すうっと低くなる。(さかき)なつみは、思わず身をすくめた。 「暴力じゃないし。セクハラを止めさせようとして割って入ったら、相手がバランスを崩してよろけたの! でもって、キャビネットの角に頭をぶっつけちゃって」    なつみは、新卒で入ったホテルを、入社二年目にして辞職したばかりだ。きっかけは、直属の課長の、女子社員たちへのセクハラだった。しつこく体を触られている後輩を見て、我慢できなくなったのである。 『なつみは、お節介すぎるのよ』 「困っている人を見たら、放っておけないよ」    母は、深いため息をついた。    『まあ、なつみは昔から正義感が強かったからねえ。それにしても、せっかく転勤処分で済んだんだから、東京へ戻って来ればよかったのに』  結果的に上司に怪我をさせたということで、なつみは、東京への転勤を命じられたのである。なつみの実家は東京で、母がそう言うのももっともな話だ。だが、なつみは即座に答えた。   「でも、京都を離れたくはないから」 東京出身のなつみだが、大学も就職先も京都を選んだ。今は亡き父方の祖母・天珠(てんじゅ)の影響である。京都出身である彼女は、折に触れては孫娘に、その伝統や歴史を語って聞かせてきた。おかげでなつみは、すっかり京都びいきになったのだった。   『けどね。転職先が決まるまでの間、家賃を払うあてはあるの?』  痛いところを突かれて、なつみはぐっとつまった。現在住んでいるアパートは、京都市内でも中心地だけに、家賃相場は高めだ。もちろん転職活動は頑張っているが、いつ決まるか保証は無い。貯金を崩し続けるのは、きつかった。  その時、電話口の向こうで、何やらなだめるような声が聞こえた。ややあって、穏やかなバリトンが耳に飛び込んで来る。父であった。 『なつみ。話の内容は、大体見当が付いた。次の仕事も、引き続き京都で見つけたいんだな?』 「うん、是非!」  なつみは、勢い込んだ。 「大学時代からずっと住んでて、もうすっかり馴染んじゃったんだもん。それに何と言っても、おばあちゃんの故郷だし」  ここぞとばかりに祖母の名前を出せば、父は何やら思案し始めた。ややあって、こう言い出す。 『よし。じゃあ、こうしよう。お祖母さんの知り合いだった人で、手広く不動産経営をされている方がいるんだ。安い物件が無いか、聞いてみてやろう。要は、転職先が決まるまでの間、家賃の不安が無くなればいいんだろう?』 「本当!?」  なつみは、歓声を上げた。天珠はかつて、京都の神社で巫女をしていたのだ。その繋がりで、人脈はかなりあったようである。 『ああ。だからなつみは、転職活動に集中しなさい。まだ若いんだから、仕事はいくらでも見つかるだろう』  背後で、呆れたような声が聞こえる。きっと母が、甘すぎると怒っているのだろう。だが、これはチャンスだった。   「お父さん、本当に本当にありがとう。私、どんな部屋でも構わないからね?」    なつみは、嬉々として父に礼を述べた。後でその言葉を、ひどく後悔する羽目になったのだが。
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