プロローグ「分かるでしょ。時間がなかったんだ」

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プロローグ「分かるでしょ。時間がなかったんだ」

  世界は初期化される。結末を覆す為に許されている手段は僅か一つのみ。登場人物の初期設定の改変。それも己の身、ただ一人分。 言葉の表面だけをなぞれば、理想の自分を作れるのだと羨望を向ける者もいるだろう。だが、それは平野(ヒラノ)恵流(エル)という人格の死に他ならない。 数えるのも馬鹿らしくなるほどの途方もない周回の分だけ、恵流は自らを失敗作と断じて介錯してきた。そこに感情を失くせるほど、恵流は大人ではない。 「平野恵流、享年三歳。壮絶な人生だよ、全く」 そう、恵流はさんちゃいなのである。てっきり喪失しているだけと思っていた――思わされていたような、思い込んでいただけとも言えるような――記憶は最初から存在せず、まさしく恵流は入学式の”あの瞬間に生じた”のだ。 普通であれば、経験によって磨かれていく性質も性格も成熟の度合いも、最初から定められたものに過ぎない。全てはこの”望まぬ結末”を覆す自分の求道に帰結する。 質が悪いのは、その利害が不一致になることは絶対にない事だった。何故なら平野恵流と言う人間は”そういう風に設定されている”。 ――不屈の心と、記憶への渇望。それはまだ周回が一桁であった頃から、恵流を織りなす要素として変わらずに在り続けている。 ゆえに、今回も躊躇はない。自分と同じで違う彼らと同様に、幾らかの迷いを嚥下して、恵流は自らの首に刃先を沿える。それだけが、望む未来に至る唯一の手段であったからだ。恵流は自らの運命を受け入れきっていた。 「ばいばい」 別れの挨拶は一体誰に向けたものか。振り返れば、心には醜い後悔と幾らかの充足感が喧嘩もなく同居している。多くの平野恵流に比べて、自分は恵まれていたと恵流は思う。そう思えることが、慰めくらいにはなった。 こうして今回も恵流の物語が綴じられる。 そうしてまた異なる恵流の物語が始まる。 「駄目なものは駄目なんだーーー!!!」 筈だったのだが、どうやら閉じた背表紙の裏側には少しだけ物語が続いていたらしい。
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