さらば、『Anagogic Ideal』

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 長くなったけど要するに、このゲームのNPCは【ほとんど現実の人間と変わらない】と言っても過言ではない。  現実の人間と変わらないということは。  人の名前を覚えるのも――つまり、こちらの名前を覚えてもらうのも、相応に大変だってことだ。  数多いるプレイヤーの名前を、1人の受付嬢が丸暗記しているなんてことは滅多にない。  自分の関わった顧客の名前を全て覚えているというを持つNPCもいるけれど、ニャイリアちゃんは……どちらかというと、こう、その、知能指数は低めのキャラだ。  いや、仕事は真面目だし、一生懸命頑張っているんだけど。  依頼人の名前を読み間違えたり、お釣りの計算を素で間違えたりする。  なので、プレイヤーからも「可愛いけど仕事は頼みたくない」という認識を持たれている。  それでも、この始まりの街を訪れたばかりの新規プレイヤーは(比較的空いていることもあって)ニャイリアちゃんの担当する受付に並ぶし、僕のように彼女の出勤日と時間に合わせてギルドを利用するファンも、ごく一部ながらいいるんだ。  今日、プラズマラビットの素材納品依頼、その納品物を規定数取得してギルドを訪れた僕は、迷わずニャイリアちゃんの受付を目指した。  平日のお昼前、プレイヤーが少ない時間帯ということもあるけれど、今日もニャイリアちゃんの担当受付はガラガラだ。 「お疲れさまですにゃ、ユーカリプタスにゃん。依頼達成の報告ですにゃ?」 「……! おっ……あっ……うん、はい……!」  びっくりした。  何せ、ニャイリアちゃんに名前を呼ばれたのは、これが初めてだったので。  厳密にいうと名前を呼ばれたこと自体は、もちろんある。  半年前にゲームを始めて、ニャイリアちゃんに一目惚れして、そのまま始まりの街を拠点にしてから週に2度、彼女の出勤日に合わせてギルドで仕事をこなしていたけど。  毎回毎回、依頼確認用のウィンドウでデータを開示してから、そこに書いてある名前を呼ばれていたのが。  今日は受付で、顔を見ると同時に呼ばれたのだ。  ちょっとふわふわした気持ちのまま、僕は納品依頼を達成した。 「またのご利用をお待ちしておりますにゃ!」  元気よく手を振るニャイリアちゃんに会釈を返し、ギルドを後にする。  アイテムボックスから物を取り出す時は個数を指定して出すので、10個の納品物を11個分出すなんてことは、普通は有り得ない。  ニャイリアちゃんとの、少しでも話の種を増やすべく講じた、姑息な手段だ。  NPCにとっても無個性なプレイヤーキャラはやっぱり無個性で、セミオートで作成される「どこにでもいる美形キャラ」は記憶に残りづらいらしい。  ならば奇を(てら)ってモヒカンに肩パッドでも付ければいいのか、というとそうでもない。モヒカン肩パッドのアバターなんて、案外たくさんいるからだ。  特に、種族:人間()、職業:戦士()、性別:()という公式オススメ、無難オブ無難な初心者向けキャラクターは、始まりの街では無限に供給されてゆく。  それでも装備や職業を変えるとニャイリアちゃんに忘れられるかもしれないと思って、僕は頑なに彼女と初対面の時の職業を続け、装備も印象を変えないように、初期装備と同じような形の物を選び続けた。  今思えば、早い段階で特徴的な形や色の装備に変えてしまえば良かった気もするけれど……。  最後の最後で、お気に入りのNPCに名前を覚えてもらえた。  なかなかの達成感だ。  きっと、次に会った時も、ニャイリアちゃんは僕の名前を呼んでくれるのだろう。  次があればの話だけれど。  拠点にしている無料宿泊所に戻り、ログアウト。  青い光の川が身体の周りを流れるような演出の後、現実の世界の一歩手前、【エントランス・メニュー】に戻ってくる。  ここでゲームを選択したり、情報ネットに接続したり、フレンドと通話をしたりもできるのだけれど……僕は『Anagogic Ideal』を選択し、歯車のオブジェクトを掴んで【設定】画面を開いた。 「ヘルプ、退会したい」  僕の声に反応して現れたAIコンシェルジュが、退会を思いとどまるよう説得を始める。  僕の表情や目線を気にせず、ただ機械的に用意された言葉を話すだけの、普通のAIだ。 「いいから、退会させて」  そうしてようやく退会用の画面が表示された。  契約に関しては音声操作ではなく、ボタンを押したり文字を書いたり、誤解の余地のない手順が必要になる。  【退会する】というボタンを押し、再度の確認にも【はい】のボタンを押す。  退会理由の入力欄に「金銭的な理由」と答え、最終確認にも【はい】と答えて。  僕はこの『Anagogic Ideal』という、世紀の傑作ゲームを引退した。  仕事もせずに引きこもってゲームばかりしていたら、貯金が尽きてしまったので。
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