響き薫る

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 私と妻の出会いは、定年まで勤め上げた職場近くのオーセンティックバーだった。  私は世に言う就職氷河期世代で、何度かの転職の末、運良く掴み取った大手企業での仕事を失うまいと我武者羅に働くあまり、結婚適齢期を逃した独身男だった。  企業の中堅として上からも下からもあれこれ言われ、給料に見合わぬ重圧に蓄積するストレスを発散するべく、自分への褒美にと週末の度、贅沢な一人酒を味わうのが鬱屈とした日々の細やかな楽しみだった。  そんな日常を繰り返していたある時、新米のバーテンダーが偶然居合わせた彼女と提供する酒を間違えたのが、全てのきっかけだった。  職場が近かったこともあり、何度と無く同じバーで顔を合わせては軽く挨拶をする程度の関係だったが、あの日、彼女が仕事の電話で席を離れた隙に、隣に座っていた連れの男が飲み物に何かを混入させる現場を目撃した。  すぐに馴染みのバーテンダーに知らせて事を未然に防いだのだが、店を後にした矢先、待ち構えていた男に計画を台無しにされたと逆上されて殴られ、警察まで登場する騒ぎとなった。  幸い目撃者が店内に複数いて馴染みのバーテンダーも証言をしてくれたお陰で男は御用となり、事件は早々に終結。  同僚達からは災難だったなと笑われたが、それがきっかけで彼女とは親しくなった。  十個もの年の差に抵抗がなかった訳では無いが、お互い酒が大好きで食の好みもよく似ており、旅行好きなところも相俟って、同棲を含む一年の交際の後に入籍を果たした。  仕事の兼ね合いもあり、結婚式は落ち着いてからと話していたが、いざ式場を決めて披露宴の内容をプランナーと煮詰め始めた矢先、世を震撼させたコロナ禍に見舞われた。  熱りが冷めるまでと一先ず日取りを先延ばしにはしたものの、収束の兆しが一向に見えず、妻の妊娠もあって予定していた式は大幅な縮小を余儀無くされた。  感染拡大の懸念からゲストは一切呼べず、練りに練った披露宴も中止。互いの両親しか参列出来ない最小限で小ぢんまりとした何とも寂しい式にせざるを得なかった。  友人や親戚の多かった妻には申し訳ない気持ちで一杯で、せめてもの償いにとハネムーンを兼ねた宿泊先には高級旅館と名高いここに選んだ。  ―――が、不幸にもその日は土砂降り。  折角の庭園も見て回れず、どれほど神仏を恨んだか分からない。
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