第一章 かわいいの考察

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第一章 かわいいの考察

フェミニストなママの影響か、なぜかゲイ文学よりレズビアン文学の方が好きで、その辺の勉強ができそうな英米文学科を選んだら、なんだかわりと居心地の良い場所だった。 中高みたいに制服もないし、毎日好きな格好をして通学してたら、わざわざゲイだと言わなくてもなんとなく「LGBTQの人」として受け入れられるようになっていて、それがさほど異端視されることもないのも、今までにない状況だ。 まあ、大学ってわりと服装の主張の強い人が多くて、毎日和服で通ってくる人とか、毎日違う言葉が創英角ポップ体で書かれたTシャツを着てくる人とか、何人か有名人がいたから、僕なんて大したことないのかもしれない。僕の場合は、男子にしてはちょっとフェミニンだったり、気に入ったアイテムならレディース服も取り入れたりとか、その程度のものだ。ショートパンツにロングブーツを合わせた時はちょっと驚かれたけど。 同級生の中には「男の子扱いしちゃだめだよね?」とか気を遣ってくれる子もたまにいて、その時は、代名詞はhe/himでゲイだよって伝えるけど、ほとんどの人には聞かれもしなかった。単純に僕にそんなに興味ないのかもしれないけど、「人と違う」ことにこれほど興味を持たれない場所は、初めてかもしれない。 もう一つ驚いたのは、男の子たちからの、何のてらいもない「かわいい」という言葉だ。高校までの男子たちはどこか、僕という存在を受け入れることをタブー視している雰囲気があった。女の子たちからは遠巻きにも「かわいい」と囁かれたし、女友達とも互いを褒め合う言葉として、「かわいい」は常套句だった。だけど男子たちは、絶対にその言葉を僕に向けることはなかったのだ。 「あ、きみ1年の愛ちゃんでしょ。噂通りかわいい」 学科室で声をかけてきたこの先輩も、難なく僕に「かわいい」という男の一人だった。 「えー、噂ってなんですか」 噂の中身には、当然「かわいい」だけじゃなく、僕のセクシャリティのこととか、イロモノっぽいイメージとか、いろいろ含まれているのだろう。だけど先輩は、「だからかわいいって噂だよ」とだけ答えた。 「あ、履修組んでるの?」 声をかけてきた先輩と一緒にいた、女性の先輩が言った。同学年の女子二人と一緒に、学科室のテーブルで履修表とにらめっこしている最中だった。 「せっかく学科室にいるんなら、そういうことは遠慮なく先輩に聞きなさいよ」 もう一人一緒にいた、男性の先輩も重ねる。ちょうど暇だったのかわからないけれど、先輩たちはこちらから頼むまでもなく履修の相談に乗ってくれて、その後流れで、みんなでご飯に行った。 その日、同学年の一人はお持ち帰りされちゃって、そのまま先輩と付き合うことになったらしい。 男性二人いたから、もう一人もてっきり女子狙いかと思ったら、なぜか彼は僕を送っていくと言って最寄り駅まで一緒に来た。単に家の方向が同じだったのかもしれないけど。 けっこう混んでる電車の中で、入り口付近になんとか場所を確保して、彼は半分向き合う角度で僕の右に立つ。 「愛ちゃんって、思ってたより本当にかわいいし、普通にいい子だな」 「……は?」 わりと失礼な発言に、顔をしかめて見上げると、「いや、ごめん」と言いながら彼は笑う。 「いろいろ噂聞いてて、めっちゃキャラ強い人かと思ってたから」 「舟渡(ふなと)先輩……」 名前を呼んだのは、「それ、言われて嬉しいと思います?」と問いたかったからだけれど、彼は気付かず続ける。 「すげー奇抜なファッションなのかと思ったら、この服とかまじで俺の好みだし……このだぼだぼの萌え袖みたいなの」 今日の僕は、オーバーサイズのフーディーにショートパンツを合わせた服装だった。足元は白い靴下とスニーカー、頭にはオフホワイトのビーニーをかぶっている。 「まじで俺の中で、女子に着てほしい服上位な感じ」 目の前で男が着てるのに、「女子に着てほしい服」とか言われても。だんだん腹が立ってきたので、ちょっと意地悪のつもりで 「それ、僕のこと口説いてるんですか?」 と言ってやったら、先輩は言葉に詰まって何度かまばたきした。大きな丸いくりっとした目だ。眉や鼻は鋭角で凛々しい感じだけど、目だけはかわいい印象を残す顔だな、と思った。 「……口説いても、いいんですか」 先輩のその言葉と、僕の最寄り駅に電車が到着したのが、ほぼ同時だった。 僕は先輩の問いに答えないまま、「降りなきゃ」とか「ありがとうございました」とか自分でも何を言ったか定かではない言葉をごちゃごちゃ言って、閉まる寸前のドアからホームに滑り降りた。一体何が起こったのか、理解が追い付かない僕の目の前で、電車のドアが轟音とともに走り去った。 ──はろー、愛ちゃんだよ。 今回は、僕のファッションについてたくさん質問をもらったから、普段学校に行く時の私服コーデ、3パターン紹介しようと思います。 1着目はこれ。今は僕、ストリート系もプレッピーな感じも好きで、普段着はだいたいそのどっちかか、両方のアイテムを混ぜた感じ。このベージュのベストはプレッピースタイルの定番でよく着まわしてるやつ。ネイビーのラインがスクールガールっぽくてかわいくない? チェックの膝丈パンツも、この系統のお気に入りなんだ。 次、2着目。これがわりとハイブリッドな感じのコーデかな。スウェットの首からシャツの襟を見せるの、ちょっとトラッドな感じになってけっこう好き。ボトムスはワッペンいっぱいついてるダメージジーンズにしてみた。こういう長いパンツ穿いてると、「今日は〝男の子の格好〟だね」とか言われたりするんだよ、面白いよね。全部「僕の格好」じゃんってね。 じゃーん、3着目。これが自分の中で一番定番スタイルかも。オーバーサイズのスウェットかフーディーと、ショートパンツの組み合わせはかなりよくやる。足元もソックスの長さとか、スニーカーにしたりブーツにしたりで、いろいろ印象変えられて楽しいの。 「愛ちゃんのファッションのポイントは?」って質問もいくつか来てたけど、本当に一番、これだけはっていうのは、「好きな服を好きなように着ること」! これがマジで大事。もちろん、人からかわいいって言われるのは嬉しいし、ファッションのモチベの一つではあるよね。それを目指すのもおしゃれの楽しみ方としてアリだと思うけど、僕の場合はやっぱり自分が好きでかわいいって思うもの着てないと、どうしても上がんないの。 今日は普段着コーデを紹介したけど、フォーマルだともっと面白い服いろいろあるから、今度はそれも紹介したいな── 翌日のキャンパスで舟渡先輩に会ってしまったら、どんな顔したらいいんだろうと思っていたのに、彼はわざわざ遠くから声をかけてきた。 「おーい、愛ちゃん」 おーいって。マジなんなの、おーいって。文学部棟の前にいた僕に、並木の間を抜けて駆け寄ってくる。 「昼ごはん今から?」 日差しの眩しい日で、僕は顔の前に手を翳しながら見上げる。 「……そうですけど」 「奢るよ」 いきなりそう来られて、僕はちょっと声を失う。何が目的で、この人は…… 「行こう」 あっと思った時には、手を取られていた。でも、そんな感じで颯爽と連れ出したくせに、行った先は混み合うファーストフード店だった。 てりやきバーガーを手に、彼は僕に切り出す。 「昨日、話が途中だったからさ」 チーズバーガーを手に、僕は目を泳がせる。 「昨日の話って……」 「俺けっこうマジで、愛ちゃんのことかわいいと思っちゃってるんだ」 ちゃってる、という言い回しが引っかかるんだけど。 「たとえばさあ……お試しみたいな感じだったら、だめかな? とか」 僕は彼の黒目がちな丸い目を見つめ返す。それは、僕が思ってる意味で合ってるんだよね……? 「付き合ってみてくれない?」 黙っている僕に、彼がまた「おーい」と投げかけてくる。 「すいません、ちょっとびっくりしすぎて」 だって、この人、どういうつもりで…… 「……男の子と付き合ったことあるんですか?」 「まさか、ないよ」 即答で「まさか」なの? それで、なんで…… 「でも愛ちゃんマジでかわいいからさ。なんか俺ん中で、めっちゃいいな、ってなっちゃって」 「はあ……」 ちょっと僕にはよくわからないんだけど……だけどその言葉に、嫌な気はしなかったのも事実だ。 「とりあえずお試しのつもりで、付き合ってみない?」 意味は全然わからないし、この人を好きになれるのかもわからなかったけど、その提案を、けっこう面白そうだと感じている自分もいる。 「ちょっと……考えてみていいですか」 そう保留の返答をしたはずなのに、彼はなぜか「よっしゃ!」とガッツポーズした。 テレビ台の上の缶にタロちゃんがコインを入れる音が、チャン、チャン、と鳴るのが聞こえる。ママが以前百均で買ってきた、水色の円筒型の貯金箱。 タロちゃんが6年生になった頃くらいに、彼の母親は家を出て帰らなくなり、しばらく後に離婚が決まった。父親は仕事で忙しく、食事時に家にいることはほとんどない。朝も早くに出かけて顔すら合わせない日が多いそうだ。タロちゃんはいつも、家のテーブルに置かれている食費にしてはかなり多めのお金から、必要な分だけ取って自分のご飯を買っている。洗濯物だけは、週に一回父のものと一緒に引き取りに来るクリーニング業者がいるらしいけれど、ほとんど人がおらず掃除もしていない広い家は、だんだん埃っぽく、暗くなっているという。 保護者の大人とほとんど顔を合わせず生活しているのはちょっと心配なので、ママはよくうちの夕食に呼んでいた。当然彼のお父さんにも話を通そうとしたけれど、会うことはもちろん、タロちゃんに手紙を託しても、読んでいるのかすらわからないという。地域の民生委員さんを通して、やっと、うちによく来ていることは「把握している」という確認が取れた。 賢いタロちゃんがうちの食費のことまで気に病むので、一食200円と決めて貯金箱に入れてもらうことにした。ある程度貯まったら3人でディズニーでも行こうなんて、ママと僕はこっそり話している。 2階から降りて来てリビングに入ってきた僕と、食費を納めてテーブルにつこうと振り返ったタロちゃんの目が合う。タロちゃんはなんだか解せないような、変な表情をした。 「愛……」 小首をかしげて、僕の顔をまじまじと見つめる。 「また、泣かされるような男じゃ、ないよな」 ……いやほんと、何なんだろうね、この子の鋭さは。この春から進学した有名私立中学の学ランも、まだぶかぶかで袖が余っているような子どもなのに。小さくため息をついて、僕は自分より低い位置にあるその肩を抱く。 「君はそんな心配、しなくていいの」 タロちゃんはちょっと不服そうな顔で、僕に肩を揺さぶられている。 「もうすぐできるよ、お皿出して」 ママがキッチンから声をかける。二人で皿や箸を並べたら、バットに載せた揚げたての天ぷらをママが運んできた。 「……で、麻紀さん、今日は何のお祝いなの?」 嬉しいことがあると、ママは天ぷらを揚げるのだ。食卓についたママは、にやりと頬を緩めた。 「実は……紙の単行本化、決まりましたー!」 「えー! すごい! やったじゃん!」 パチパチ手を叩く僕の隣で、タロちゃんが不思議そうに僕らを交互に見る。 「単行本って、コミックスってやつ? あれってどの漫画でも出るんじゃないの?」 「それが最近は、かなり厳しいのよ。電子がだいぶ主流になってきて、配信だけで紙媒体にならない漫画ってかなりあるし、電子ですら単行本にまとめてもらえるのにもハードルあるし……」 ママがため息交じりに滔々と語る内容が、はたしてタロちゃんにわかりやすいだろうかと思ったけれど、タロちゃんは、 「つまり、めっちゃすごいってことか」 と真面目な顔で拍手した。こういうとこが、僕とママがタロちゃん推しになってしまう理由だ。 「あれ?」 不意にママが、2階の音に目を上げた。 「愛ちゃん、洗濯機回してる?」 「うん、夜にごめん。ちょっと着てく服足りなくなりそうで」 ママは意外そうな顔をする。 「あんなにたくさん洋服持ってるのに?」 僕のファッション好きは、ママもよく知っている。クローゼットがぱんぱんに膨れ上がっているのも。 「……うーん、ちょっとね」 彼好みの服は、ちょっと偏ってるから。 ──その日は僕が、舟渡先輩に交際をOKした日だった。 彼のアパートは大学から徒歩15分くらいのところにあって、ものすごく狭いけど、物が少なくて片付いていた。付き合ってすぐ家って、と思ったけど、彼は付き合う相手とはできるだけベタベタくっついてたいタイプの人みたいで、家だと気兼ねなくくっつけるからってことらしい。 最初の何回かの訪問は、タブレットで適当なおもしろ動画とか見ながら、彼は僕の髪や頬に触ったりキスしたりしていた。そのうちちゃんとキスするようになって、彼の手も、僕の脚やお腹のあたりにまで伸びて、服の中に入った日に、初めてすることになった。 意外……といったらあれだけど、彼は、セックスも大丈夫だった。僕は初めてだし、彼も男相手は初めてだったけど、ちゃんと興奮したみたいだ。わりと上手くいった方だと思う。 した後もまたくっついて、動画見て、彼は画面を見てるかと思えば、時たま不意に、僕の髪にキスした。もう画面に視線が戻ってる彼の横顔を見ながら、本当にこの人、僕のことが好きなんだ……なんて思った。 彼は、テニス部とは名ばかりの飲み会サークルに所属していて、付き合って2ヶ月経った頃に、サークルの食事会に僕を誘ってきた。 「愛ちゃんと付き合ってるの、サークルのやつらに知られちゃって、連れてこいってうるさいんだよ」 知られちゃって、と僕は脳内で反芻した。 「隠してたの?」 「いや、知られたら絶対連れてこいって言われるからだよ。あいつらガサツだし、愛ちゃんは苦手そうだなって……」 僕は黙って、彼の苦笑いをじっと覗き込む。 「……なんだけど、どうしても今回は断れなくてさー。頼むよ、一回だけ!」 手を合わせ、頭を下げるのを見ながら、ため息をつく。別に食事会に参加すること自体はいい。知らない彼の一面が見られそうだし、むしろ興味がある。だけど、一連の流れがなんだかモヤモヤした。それが何なのか、うまく言葉にできない。 だけど、 「……わかったよ、行ってあげる」 そう僕は、答えていた。 「つまり心は女の子なわけでしょ!?」 「違います」 即答したけれど、居酒屋の喧騒の中で相手に届いたかもわからなかった。「he/himでゲイです」まで一応言ったんだけど。 大学から徒歩圏内のよくあるテーブル席の居酒屋チェーン。もっと大人数なのかと思ったら、その日は10人ちょっとくらいのメンバーだった。他大学との合同飲み会とかになるとかなりの人数になるらしい。 「チャレンジャーだよね、だって」 僕の斜め向かいに座る、声のでかい男が、舟渡先輩と僕を交互に指さしながら言う。 「チャレンジャーって、失礼でしょ」 僕の真向かいの女性が嗜めるけれど、声は笑っている。 「だってなんか俺そういう、イレギュラーなのやってみようと思ったことないもん」 ……僕は何もしなくてもゲイなんですけど、一体僕が、何をやってみているというのか。 「愛ちゃんはいいよ。でも舟渡お前は、なんでまたいきなりそんなチャレンジ精神出してきたん?」 目の前にいる人間のこと、チャレンジ精神なきゃ付き合えない相手みたいに、よくもまあ言うよなあと怒りを通り越して呆れてしまう。これにはさすがに舟渡先輩も怒るんじゃないかと思って顔を見たら、彼は困ったようなヘラヘラした笑みを浮かべていた。 「いや、俺も最初は男は無理かと思ったけど、愛ちゃんくらいかわいかったらアリかな〜って……」 つい問うような目で彼を見てしまう。しかも、それってまるで、僕からアプローチしたみたいな言い方では…… 「愛ちゃんは? この男のどこがそんなに良かったの?」 声のでかい男が重ねて聞いてくる。 どこが良かったのか──正直、舟渡先輩のどこが好きなのか、自分でもよくわからなかった。ただ、アプローチされて嬉しかったし、ときめく気持ちがあった。好意を伝えてくれたことにときめいて、付き合おうと思うのは、別に何も間違ってないとは、思うけど…… 彼を再びちらりと見ると、心配そうな視線が見つめ返す。たぶん彼は、自分の方からアプローチしたことを、この場で明かされたくないと思ってる。 「……まあ……優しいところかな」 僕の呟くような返答も、彼らは聞いているのかいないのか、よくわからなかった。 二次会に行くというみんなと別れてさっさと帰ってきたら、家に着いたのは9時すぎだった。まだお酒が飲める年齢じゃないので引き止める人もいなかったけれど、舟渡先輩は僕を一人で帰して、二次会の方に行ってしまった。 二人暮らしのうちのルールで、お風呂は先に入る人がお湯を張り、後に入った人が掃除まですることになっている。といってもこすらないバス洗剤吹きかけるくらいの掃除だけど。お風呂から上がって、お湯を抜いたバスタブに洗剤を吹き付けながら、モヤモヤし続けていた思考がふと一つの言葉に着地した。 「〝尊重〟……」 そう……尊重されてない、と感じた。 彼がサークルの人たちに、僕と付き合ってることを隠してたこと。僕が苦手そうな相手だと最初からわかってたのに、食事会に来てほしいと頼んできたこと。 「……話し合わないとなあ……」 これまでの僕たちは、互いの価値観を擦り合わせることすらなく、ひたすら恋の甘いところだけを舐めているようなものだったのかもしれない。付き合っていくには、これからもっと、努力が必要なのかもしれない。僕は、そう考えていたんだけれど。 「ごめん」 翌日は土曜日で授業はなかったけど、僕が連絡する前に、彼の方から話したいと呼び出された。だけどなんでまた、ファーストフード店なんだろう。もうちょっと落ち着いたとこで話そうとか思わないのかな。 「うん……昨日はちょっと傷ついた」 率直にそう返したけれど、謝らなきゃいけないと自分で気付いてくれたなら良かったと、そう思ってしまった。 「いや、そうじゃなくて……俺、やっぱり無理だと思う」 僕はしばらく、反応できずにいた。……ん? 何これ? 「俺、愛ちゃんかわいいかわいいばっかりで盛り上がっちゃって、自分がゲイになるとか、周りからそう思われるとか、全然覚悟できてなかった」 盛り上がっ、と脳内で反芻した。この言い回しが、最初からずっと引っかかってたのに、どこかで僕は、気付かないふりをしてたんだろうか。目の前で首を垂れる彼の姿が、なぜかとても遠くに感じられた。 「ごめん。俺やっぱり、ゲイは無理だ」 その日は一日、何をするわけでもなく、気が付いたら駅前のガードレールに腰かけてぼんやりしていた。肌寒くなってくるまで、何時間そこにいたかわからない。夕方に帰ると、うちの小さい門の前で、太良と鉢合わせた。案の定この子は、僕の顔を見るなり何かを察した表情をする。 「愛、ひどい顔してる」 子どもの率直さは時に残酷である。だけど、そう言う太良も、いつもと少し様子が違っていた。 「俺、今日二人に話したい事あったんだけど、別の日の方がいいかな……」 子どもにそんな気遣いされて、放っておけるわけがない。「いいから入んな」と、その背を押した。 「……父さんが、再婚するって」 太良がそう切り出したのは、夕食を食べ終えた後だった。今夜はママが仕事忙しめで、僕が冷凍餃子を焼いた。太良もサラダを作るのを手伝ってくれた。 「それは……タロちゃんにとっていいこと? 悪いこと?」 ママが聞く。 「それ自体はどうでも……なんて言っちゃだめだろうけど……」 父親の再婚をどうでもいいと思ってしまうのが、彼のせいではないことを、僕もママもわかっている。 「ただ、これからは新しいお母さんが家事やるから、ひとの家で食事するのはやめろって言われた」 僕とママは、思わず顔を見合わせる。結婚と家事代行を雇うことを混同している男は世の中には多いのだろうけど……。太良に対しても、あの父親は、自分自身ではどうしても向き合えなかったのだろうか。しかし、それらの渦巻く疑問も、太良の次の言葉で途切れた。 「これまで本当に……お世話になりました」 両手をテーブルについて、不慣れそうに深く頭を下げる。偶然にも日に二度、人が頭を下げている姿を見た。けれど、さっきとは全然違う気持ちだ。 「タロちゃんやめて、頭上げて」 肩を抱いて顔を上げさせると、その目は赤かった。 「ほんと……ありがとうございました」 「なんでそう君は~」 「そんなにしっかりしなくていいんだってば~」 僕もママも口々に言いながら、泣きそうになる。 「二人がいてくれなかったら、俺マジでだめだったと思うから……」 僕は、太良の生活のほんの一部しか知らない。自分と関わろうとしない父親と二人の家で、12、3歳の子がどうやって生き抜いてきたのか。それがどんな気持ちだったのか。 「僕だって……タロちゃんに助けられてるよ」 こういう時に子どもの前で泣くのはあんまり良くないかも、と思いながらも、すでに僕は涙と鼻水をぐずぐず言わせている。 「外でつらいことあっても、この家に帰ってきて、ママとタロちゃんがいてくれるだけで、めちゃくちゃ安心するんだから」 ママは笑って、 「たしかにタロちゃんがいてくれないと、愛ちゃんの方が心配だね」 なんて言ってる。 「私も、自分が漫画描いてる間、タロちゃんがここで勉強して、二人でただ黙々と作業してる時間、好きだったな」 ママは太良の肩に手を置いて言う。 「お父さんが嫌な顔するかもしれないからアレだけど、うちは、またいつでも来てくれていいからね」 太良は黙って頷いた。 僕はクローゼットを開いて、たくさんの愛する服たちと対峙する。その中には、舟渡先輩と付き合っている間は着てあげられなかった、お気に入りたちもいる。 「みんな、めちゃめちゃかわいい」 口に出して、言ってみた。 夏休みが始まってすぐ、ママは一体どうやったのか、太良の両親を説得して3人でディズニーシーに行った。資金源はタロちゃんの食費貯金。3人分の入場料と食事代よりちょっと余るくらいだったので、せっかくだからとママは、キャラクターの耳のついたカチューシャを一人一つずつ買った。 着けて3人で撮ったら、ものすごくふざけた写真になったけど、太良もママも僕も、最高にかわいかった。
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