第二章 それが運命なら

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第二章 それが運命なら

あまりにも、ベタなドラマのワンシーンみたいで笑っちゃいそうになったけれど、見上げた彼は、真顔で僕を見つめていた。 「あ、すみません」 同じ本の背表紙の上で触れていた手を慌てて引っ込めると、彼は小さく「いや」と言った。切れ長だけど光の強い瞳が、鋭く僕を捉える。彼の周りだけ、冬みたいな白く凛とした空気があるような気がした。 大学図書館でそんなことがあったのも、ほとんど忘れかけていた時に、駅でまた彼を見かけた。向かいのホームは二車線離れていて、その姿は小さかったけど、僕はなぜかすぐ彼に気づいた。そして彼も、僕を見ていた。 やっぱり彼の周りだけ、空気の色が違うように見えた。もう5月なのに、晴れた1月の寒い朝みたいな感じ。 見つめ合っていたのは電車が割って入るまでの、ほんの一瞬だったのかもしれない。だけどその一瞬、時が止まったみたいに感じた。 ──はろー、愛ちゃんだよ。 今回はこんなメッセージいただきました。「ボーダーコリー」さん。 「愛ちゃんこんにちは。突然ですが私、社会人になってから全然恋してません。学生時代はいろいろと出会いもあったのですが、会社にはおじさんしかいないし……。そこで、マッチングアプリを始めてみようと思ってるんですが、愛ちゃんはどう思いますか? 危なくないかな、というのもあるけど、そこは自分がしっかり相手を見極められたら問題ないかなと思います。でもそれ以上に、こういうので本当の恋愛ってできるのかな? と思ってしまいます。なんだか不純な出会い方のような気がしてしまって。素敵な出会いってどうやったら見つけられるのかな。愛ちゃんにとって、いい出会いって何ですか? いい人に出会えるアドバイスがあったらお願いします」 マッチングアプリね、僕も一応やってるよ、あんまりちゃんと見てないけど。わりとああいうの、おろそかになりがち~。最近はアプリで出会うのも普通になってきたけど、やっぱり会うまで相手の素性がわからないから、くれぐれも気をつけて使わなきゃだよね。 でもさ、出会い方って実はそんなに大事じゃなくない? ドラマみたいな出会いとか憧れるけど、それと、相手が本当にいい人かどうかは別だもんね。やっぱり大事なのは、付き合ってからちゃんとお互い思い遣ったりできるかどうかなんじゃないかなあ。そういう相手を探すつもりで、マッチングアプリも使ったらいいのかもね。単に恋人作れればなんでもいい、じゃなくて。 あー、僕も言ってて自分で教訓になってるかも。だって僕も今2年くらい彼氏できてないもん! いい人に出会えるアドバイス? 僕が聞きたいよ~── 「どうしても愛ちゃんに会わせたい人がいるんだよ!」 というのが、同じゼミで1学年上の仲間先輩が、熱心に僕をキャンプに誘った理由だった。ゼミの人たちはみんな誘われてたけど、先輩と彼氏が企画した遊びのキャンプで、全員参加というわけじゃない。だけど、僕にはどうしても来てほしいのだと彼女は言った。 先輩の彼氏が運転するレンタカーのワゴンにゼミのメンバー数人が一緒に乗って、川べりのキャンプ場に向かう。先輩の彼氏は同じ大学の経営学科で、そっちの友達も何人か参加するらしい。っていうと合コンみたいだけど、人数やジェンダーを合わせてるわけでもないし、向こうはパートナー連れも多いそうだ。 到着したキャンプ場は、駐車スペースとキャンプスペースが並んで区切られていて、バーベキューもできる。川は少し土手を下ったところにあるらしい。 僕らが着いた時、一台のワゴンがすでにいて、何人かが設営し始めていた。仲間先輩が僕らを「英文科の同じゼミの子たち」と紹介して、先輩の彼氏が、「営科のやつらと、こいつの彼女さん、こいつの彼氏さん」などと言って紹介する。 「そう、この子なの、愛ちゃんに会わせたかった人!」 仲間さんが、「彼氏さん」と紹介された小柄な青年の手を取る。 「ふみくん、この人が前に言ってた愛ちゃん」 僕も先輩に手を取られて、引き合わされる形になる。 経営学科の面子はみんな男性で、「彼氏さん」ということは、ゲイカップルなのだろう。そして彼は、僕ほどガーリーな主張の強いファッションではないけど、かわいいタイプのゲイという感じがする。先輩の意図はなんとなく読めたけれど、正直そこだけの共通点でそんなに盛り上がられるのは妙な気分だった。「どうも……」と僕の方からぎこちなく挨拶すると、彼もぎこちない笑みを浮かべて、会釈した。そこにもう一台、青いコンパクトカーが砂利の音を立てながらキャンプサイトに入ってくる。 「お、これで全員揃ったな」 先輩の彼氏が言う。経営学科の誰かが、「まったく一人だけマイカーかよ」「金持ちだから」と囁き合っていた。 だけど、運転席から出てきたその人の姿を見て──僕は、数日前のホームと同じように、時間が止まったような気がしていた。そして彼も、僕に気づいて見つめている── 「九条(くじょう)! 彼女さん紹介して」 先輩の彼氏の声で、我に返る。「九条」と呼ばれたその人の隣に、僕らと同じ大学生くらいに見える、キャンプ場にしてはちょっとコンサバティブな服装の女子が、助手席から出てきて並んだ。 彼と、彼の恋人の、ほとんど2人セットになっている自己紹介が終わってみんなが拍手する。 テーブルや椅子の設置が終わったら、バーベキューの準備の前に、とりあえず全員で自己紹介することになった。設営の時は先輩と先輩の彼氏が仕切っていたけれど、自己紹介の段では経営学科のちょっと調子良さそうな男が司会になった。 「九条さん」は、経営学科の4年生で、彼女は都内の女子大に通っている。そのくらいの情報しかない自己紹介を、呆けた頭に刻んでいると、 「高梨文宏(たかなしふみひろ)です」 いつの間にかさっきの「ふみくん」に順番が回っていた。 「ふみって呼んでください」 何人かの女子からかわいい~と声が上がる。この子が、仲間さんの目には僕と似たタイプに映るんだろうか。なんか大人しくて清純派って感じじゃん。隣に座る彼氏は、経営学科男子の中では寡黙な感じの人だけど、ふみくんを見る目は、あまりにも「愛しくてしかたない」と雄弁に語っていて微笑ましい。 「僕は大学じゃなくて専門学校なんですけど……」 ふみくんがそう言ったところで、司会の男が「あ!」と声を上げた。 「そっかごめんごめん、じゃあ次行こうか」 ふみくんも彼氏もきょとんとしていた。僕は周りを見回す。何人か「え?」っていう顔をしている人はいたけど、何も気付かないような様子の人も多い。 「じゃあ次、知ってるよ、うちの大学の有名人、愛ちゃん!」 ちょうど僕に順番が回ってきて、皆が拍手する。だけど僕は、第一声発していた。 「その前に、質問いいですか?」 司会の彼は、ちょっと虚を突かれたようだったけれど、手で僕にどうぞと促す。 「ふみくんって、何の専門学校?」 一瞬の沈黙の後、ふみくんが微笑んだ。 「調理なんだけど……」 「えっ」と仲間さんが声を上げた。 「ちょと、今日の即戦力じゃない!」 ふみくんが笑って答える。 「でも……ただのバーベキューですよね」 「こいつが!」 先輩が彼氏の耳を摘まみ上げて、突然の暴力的展開にちょっとした悲鳴が上がった。 「海鮮も入れようとか言って、でっかいイカ丸ごと3匹も買って来やがったのよ! 誰が捌けると思ってんのよ」 イカの捌き方、たしかに僕には見当もつかない。内臓とか取るの? だけどふみくんは控えめに微笑みながら言った。 「……イカ、わりと簡単ですよ」 一同から「おおー!」と、その日一番の歓声が上がった。 「ふみでいいよ」 男子は火おこしと設営、女子は調理というモヤっとくる仕分けの中で、どういうわけだか調理に配置されてひたすらエビのワタを取ってる僕の隣に、ふみくんが座る。もちろん彼も調理班だ。問題のイカはあっという間に見事処理されたらしい。 「呼び捨てでいい。そっちの方が呼ばれ慣れてるから」 ふーん、と僕は頷く。 「じゃあ僕も愛でいいよ。そっちがちゃん付けで呼んでたら、ふみって呼びにくいから」 頷く笑顔が、さっきよりちょっと快活そうに見える。と思ったら声を潜めて言う。 「さっきの司会の外村って人、前に会った時も感じ悪かったんだよね」 「あっ、そうなんだ?」 「表向きはフレンドリーにしてるけど、たぶんちょっとフォビア入ってると思う」 ふみが経営学科の人間関係を教えてくれる。どうやら仲間先輩の彼氏がグループの中心的存在で、ふみの彼氏ともう一人男子の、3人組がイツメン。それぞれのパートナーは、ちょっとだけ面識があるけど、ほとんど話したことないレベルとのことだ。あとの3人は、こういう大きめのイベントの時には合流するゆるい付き合いで、その中にあの司会の外村や、それから、九条さんも入っている。 「うちらの方は、仲間さんと、もう一人藤崎さんが4年で、あとは全員3年。みんな『フェミニズム文学批評』ってゼミのメンバーで、たぶんそんなフォビックな人はいないと思う」 僕も情報提供する。 「ところでさ……ワタ取るの下手すぎじゃない!?」 ふみにいきなり指摘されて、僕は「へへ」と誤魔化し笑いした。ばれたか。 「それじゃいつまでたっても終わんないでしょ。貸して。野菜でも洗ってきて」 「はーい」 立ち上がる僕に、ふみが「それとさ」と呼びかける。 「さっきはありがとね」 最後にそれを言うあたり、けっこう面白いやつかも。そんなことを思いながら、僕は黙って手をひらひらさせた。 バーベキューが始まってしばらくは、ふみが僕のそばに話しに来て、ふみの彼氏もそれにくっついて来て、自然と3人で話す感じになっていた。ふみの彼氏のテツさんも、寡黙なようでけっこう飄々とした面白い人だ。二人は高校の先輩後輩で、卒業後に再会して付き合うようになったんだとか。 そしてふみは、第一印象よりずっと毒舌だった。心を許せば歯に衣着せぬトークを繰り出すけど、警戒してる時ほど清純派のぶりっ子を貫くみたい。こういう腹黒キャラ、僕はわりと好き。 「あ、よかった、仲良くなったみたいね」 仲間先輩が紙コップのビールを手にやってきて僕らの輪の中に入った。 「ごめん私、先に説明しとけばよかったよね」 謝られて首をかしげる僕らに、先輩が続ける。 「この間ふみくんに初めて会った時、絶対愛ちゃんと気が合いそうと思ったんだよね。けっこう、言う時は言う感じとか」 「なんですかそれ~」 ぶりっ子モードでふみが答えるけれど、仲間さんにはもうちょっとバレてるの、たぶん本人もわかってるだろう。 「なんか、変な意味で二人をカテゴライズしてるように伝わっちゃったかなって、後から思ってさ」 ああそれ、先輩も気付いてたのか。僕自身も先入観持っちゃってたかも。ふみが 「まあ最初に引き合わされた時は、こんなのと一緒にするなとは思いましたね」 と言って僕が「ちょっと!」とその腕を叩く。同時に少し離れたところから、 「お! キャットファイト?」 と声が上がった。さっきの、ふみが要注意と言ってた外村だった。 「やっぱそこ二人は、ライバルになっちゃう感じ?」 僕が「何言ってんですか……」と呆れた目で返すけれど、彼はわざわざこちらに話しに近づいてきた。 「キャラ被りゆるせん、みたいな感じ?」 ふみが今度は本気の清純派ぶりっ子で 「えっ、キャラ被り……ですか?」 と、おずおずと僕と自分を指差してとぼけてみせる。 「まあ、ふみくんは動画配信やったりするタイプじゃないか。どう思う同じゲイとして? 配信とかやってる人」 ふみは一瞬きょとんとした後、「んー」とあごに人差し指を当てる。 「どう答えても好きなように解釈される質問には、僕、答えないんです」 まじこいつ、最強だなあと思いつつも、「は?」と眉をしかめる外村に、僕はとっさに「先輩ビールですか?」と手近な缶から酌する。彼も、「ああ……」とこちらに気を逸らしたかと思った。 「あーやっぱりそうだよな……専学の子って、こういうマナーとか礼儀はちょっとわかんないよな」 僕の目の前で仲間さんが「うっわ最低」という顔をするのが見えたけれど、その発言には誰より、テツさんが黙っていなかった。 「おい、どういう意味だそれは」 大柄なテツさんが凄むとなかなか迫力がある。相手も相手で、へらへらと挑発するように笑って見せるからたちが悪い。喧嘩が始まりそうな緊迫した雰囲気は、まだ僕らしか気づいていないようだった。僕は思わず「ちょっと先輩……」と割って入る。 「俺じゃないぞ、こいつがさあ」 外村が僕に振り向いた瞬間、その手がテーブルの上の何かを跳ね飛ばした。そして不運なことにそれは誰かのビールの入った紙コップで、しかも僕のパステルピンクのハーフパンツに向かって飛んできたのだった。 次第に僕らの様子に気づいた皆からも注目が集まり、ざわめきが広がる。ビールは結構入っていたようで、僕のパンツは、片方の腿が濡れて張り付いている。外村は「わざとじゃないぞ……」とか言っている。 その時、後ろから誰かの腕が回されて、ベージュのワークシャツみたいな服の袖が、僕の腰の前で結ばれた。振り向くと──九条さんだった。 「あ、え、いいですよ、着替え持ってきてるんで」 「着替えるまでは巻いておけ」 そう言う九条さんは、白い無地のTシャツ一枚になっている。どうやら自分の上着を貸してくれたようだ…… テントに置いてある荷物から、明日の分として持ってきたデニムのショートパンツに着替えて、ピンクのパンツはとりあえず干しておくことにする。テントから出ると、入口の前に九条さんが立っていた。 「あの、この服も、ちょっと濡れちゃったみたいなんですけど」 畳んだ上着を差し出して、「洗って返す」と申し出た方がいいかと思う間もなく、 「え、どこがだ?」 と彼は、ぱっとそれを取って広げた。 「全然じゃないか。これくらい大丈夫だ」 そう言ってすぐ着てしまう。これ以上言うのも気が引けるので、僕もただ「ありがとうございました」と返す。 「二度」 不意に彼が言った。テントの前にはワゴンが止まっていて、皆がバーベキューをやっている場所と、ここを隔てていた。 「会ったよな。……覚えてないかな」 「覚えてます!」 思わず即答してしまって、ちょっと恥ずかしくなって目を伏せると、彼の手が、僕の手の方に伸びてきた。「あっ」と思っているうちに、右手の人差し指と中指の先を、そっと掴む。 「初めて会った時、なんだかふわふわした綿みたいな指だなと思ったんだ……」 そのまましげしげと僕の指先を見つめている。僕は体温が急に上がって、顔が火照ってくるのを感じる。 「愛ー? 大丈夫?」 ふみがやって来て、僕はとっさに彼の手を振り払った。 「……あ、うん、もう着替えた」 「じゃあ俺は戻るよ」 彼はさっと背を向けて、行ってしまう。ふみが僕をつついた。 「……ちょっと……今の何?」 僕はふみの顔を見つめ返し、ごくりとつばを飲む。それからその肩にすがりついた。 「わ……わかんない~!」   テツさんと外村は、僕がビールをかぶった時から興が冷めて、今はそれぞれ別の人と話しながら飲んでいるとのことだった。ふみは僕を、秘密のトークのために川辺の方に連れ出した。 「で? なんかあるんでしょ、あの人と?」 川岸のごつごつした石の上をゆっくり歩きながら、ふみが問う。 「うーん……あるって言えるほどのことじゃないんだけど……」 僕はふみに話し出す。図書館で偶然同じ本を取ろうとして手が触れた時のこと。駅のホームで見つめ合った時のこと。そしてさっき、その二度の出会いを、彼も覚えていると言われたこと。 ふみは驚いてたけど、その聞き方は、とても話しやすかった。話を中断するほど大きなリアクションは取らないし、先回りして何か言おうともしない。思った以上にふみって、すごい子かもしれない。 「それは……彼女いなかったら運命と思っちゃうとこだねえ……」 僕は天を仰いで「そうなんだよ~」と返す。 「まじ自分でもドラマかよって思うもん。ドラマチックすぎてもはや嘘くさいもん」 嘆く僕を見て、ふみは笑っている。 「まあまあ、これも人生のスパイスじゃない?」 「だいぶピリ辛スパイスですわ……」 ──そんなこんなで、この妙に波乱の多いキャンプは、始まりもしなかった淡い失恋と、イケてる友情を僕に運んで来たのであった。 ……と、締めたいところだったのに、その青いコンパクトカーは、僕が授業を終えて帰ろうとした時、キャンパスの入り口付近に停まっていた。 まさか、彼じゃないだろう、と思った。というのは、文学部がある第一キャンパスと、経済学部のある第二キャンパスは、道路一本隔てただけとはいえ別々の敷地にあるからだ。経営学科の人の車が、こんなところに停まっているはずがないのだ、けど…… 「君」 車から出てきたその姿は、まさしく彼で、真っ直ぐ僕の方に向かってくる。 「話したいことがあるんだ」 彼は、僕の両手をぎゅっと握った。そして僕はと言えば……その勢いに圧されて、わけもわからないうちに、彼の助手席に乗り込んでしまった。 「いつも車で通学してるんですか?」 助手席からの僕の問いに、彼は首を振る。 「いや、普段は電車だ。駐車場も少ないし……」 そこで赤信号に引っかかった。 「君と二人で話すために、車で来たんだ」 僕を見つめるその目は、初めて会った時と同じように、まっすぐだった。 「……こんなに夢中になったのは、初めてだ」 車が再び動き出す。 「誰かをこんなに好きになったことはない。君に初めて会った日から、忘れられなかった」 正直、理解が追い付かない、というのが、僕の気持ちだった。 「……彼女、いますよね?」 彼はしばし沈黙する。 「どう言ったらいいか……うまく説明できない。ただ、君の思っているような関係じゃないんだ……」 車は、もう僕の家のすぐそばまで来ていた。 「だけど、どうにかするつもりだ」 僕が言った住所に向かうカーナビが「目的地周辺です」と告げる地点で、彼が車を止める。 「もし、信じてくれるなら……可能性はあるかな」 僕は彼の目を見ずに言う。 「……信じていいんですか」 その僕の首を、彼の大きな手が引き寄せる。近づいてくる唇に、抗いようもなかった。 「好きなんだ」 キスをする直前に、彼がそう告げた。 彼の青い車は、週末、僕の家の前に来た。「連れて行きたいところがある」とラインで言われてたけど、行き先は知らないまま、助手席に座る。高速に乗るので驚いて、 「そんなに遠くに行くの?」 と聞いたら、 「遠くないよ。都内だけど、少し郊外だな」 横顔の彼が答える。40分ほどのドライブの後、着いたのは、彼の家族の持ち物だという山間の別荘だった。そういえばキャンプの時、誰かがお金持ちだと言っていたのを思い出す。 「家族は長年使ってないから、一人になりたい時にここに来るんだ」 「隠れ家ってやつ?」 頷く彼越しに、部屋をぐるりと見渡す。一部屋にキッチンと、大きなソファの広いリビング、ガラス扉の向こうの部屋にベッドルームがあるのが見える。レトロで高級そうな家具ばかりだ。 「わ、蓄音機まである。これ本物?」 「ああ、レコードプレーヤーだけど。聴いてみるか?」 プレーヤーの隣の棚から取り出して、彼がかけてくれた音楽は、古い映画音楽みたいな優雅なワルツだった。 「なんかこんな感じだね」 と、エア社交ダンスみたいなふりをする僕の手を、彼が取る。 「踊ろうか?」 そんなことを言うなんて意外だった。 「踊れるの?」 「適当だよ」 そう言いつつも、実際はやったことあるんじゃないかという感じで、彼がリードする。僕はただそれに合わせてついていく。ストリングスの重なる柔らかい音楽と、見つめる彼の瞳に、世界が二人だけになったように思えた。 僕が彼の足を踏んでしまって、「あは、ごめん」と一瞬下を向く。そして顔を上げたら、ぐっと腰を抱き寄せられた。 「……キスしていいか?」 夢みたいに長いキスだった。それから寝室に行って、二人とも何も言わなかったけど、彼に抱かれた。 九条さんの隠れ家には、それから二度行った。いつもあの青い車で迎えに来て、行き先もいつも同じ。 一緒にいる時は、あの強い瞳で見つめられると、すごく愛されてると思える。だけど彼は、最初に僕を車に乗せた時以来、「彼女」について何も話さない。 「うまく説明できない」「君の思っているような関係じゃない」「どうにかするつもりだ」という言葉の意味を、僕は知らないまま彼と会っている。 3回目の時に、やっぱりどうしても気になって、別れ際、彼の車で聞いた。 「あの……彼女のこと、どうにかするつもりって、結局どうなった?」 彼は沈んだ表情になって、しばらく黙っていた。 「……結婚することは、昔から決まっていて、どうにもできないんだ。ただ、彼女は理解してくれると思う。親の決めた結婚だから、俺に多くは求めないと言っている」 ──口を開けて固まる僕の顔は、どれほど間が抜けていただろう。 「は……」 話が違うんじゃないですか……? という言葉が声にならずに、僕の口から空気の音だけ漏れる。ていうか、理解してくれると「思う」って、まだ彼女に言ってもいない、想像? 「……あの」 大きく息を吸い込んで、呼吸を整える。 「彼女が理解したとして……僕が理解するかどうかは聞いた?」 彼は、戸惑ったような顔をして僕を見つめた。いくら待っても次の言葉は無いようだったので、そのまま僕も黙って車を降りた。 〈なんかもう、わけわかんない。むしゃくしゃする。自分が嫌いになりそう。お好み焼き食べに行きたい〉 SNSにそう書き込んだのは、次の日の授業から帰る電車の中だった。動画の宣伝もしてるアカウントだからけっこうフォロワー多いけど、一日ぐるぐるしてもういいや吐き出しちゃえって思った。彼とはあれから連絡していない。彼もなぜか、何も言ってこなかったし、今日は訪ねても来なかった。 直接の知り合いも、動画のファンも、いろんな人がコメントをくれる。〈大丈夫?〉〈いつも愛ちゃんの味方だよ〉〈つらい時は自分を甘やかしちゃえ〉〈(ハグする猫のイラストのGIF)〉 そんな諸々に承認欲求を満たされながら帰り道を歩いてたら、 「歩きスマホ危ないぞ」 背後からの声に振り向くと、太良だった。 「あ、はい、ごめんなさい」 照れ笑いしながらスマホの手を下ろす。最近タロちゃんは、僕の背を越えた。ぶかぶかだった制服もぴったりになって、声も低くなったけど、やっぱりまだ大人には見えない眩しいほど完全な少年らしさは、どこから来るのだろう。 「愛……」 まじまじと僕の顔を見るタロちゃんに、嫌な予感がする。ああ、また当てられちゃうのかな、僕のズタボロな胸の内を。その時、手に持っていた僕のスマホの通知音が鳴った。 〈行こうよお好み焼き! 今日行く?〉 ふみからのラインだった。キャンプで会って以来SNSも全部つながってるから、見てくれたんだと思う。 「行く~!」 思わず画面に向かってしゃべったら、目の前でタロちゃんが「ふっ」と笑う。 「なんか、大丈夫そうだな」 ほんと、相変わらず鋭い子で参る。「生意気」とつつくと、「さっさと行けよお好み焼き」と僕を追い越して歩き出す。通知画面見たな? 「あ、待ってタロちゃん。タロちゃんは最近どうなの?」 新しいお母さんとの関係は悪くないようだけれど、お父さんが禁止したので、うちには以前のように来られなくなっていた。代わりに時々公園のベンチでお茶しようとか誘ったりするけど、タロちゃんもけっこう勉強が大変みたいで、時間が合わない時も多い。 タロちゃんは振り向くと、「んー」と少し斜め上を見る。 「また今度話すよ」 「……そっか」 歩き出す太良の後ろ姿は、思っていたよりもう少し、大人になったように見えた。 「まじかあ、まじかあ……」 お好み焼き屋の鉄板を挟んだ向こうで、ふみが「うわー」と頭を抱える。 「ほんと、僕も彼女がいることわかってて、なんでこういうことしちゃったのかなって……」 「いやもうそれはあいつが悪いよ完全に」 ふみが上手に焼いてくれるので、僕はヘラや調味料を受け渡すだけの助手に徹して作った豚玉が、次々お腹に消えていく。 「だってさ……彼女の気持ちなんて全然考えてなかったんだよ。親に決められた結婚で多くを求めない妻になる女の子って何? そんな人を踏んづける側に僕もなってたって思うと……」 「愛」 ふみが鉄板越しに僕を見つめる。 「大事なのはこれからでしょ。どうするの、それで?」 僕は、ふみを見つめ返し、それから鉄板の上の豚玉を見つめた。 「……もう、あの車に乗りたくない」 ふみが安心したように破顔する。だけど…… 「でも……できるか自信ない」 彼がまたあの青い車で迎えに来たら、僕はまた乗ってしまうんじゃないだろうか。そう思ってしまう自分が嫌になる。けれどふみは、ザクっと鉄板の豚玉を切り分けると、僕の皿に大きな一切れを置いて言った。 「大丈夫、手伝うから」 翌日、第一キャンパスの入り口付近に、彼の車はいた。僕が気付いたと同時に、降りてこちらに向かってくる。 「やっぱりちゃんと話したいと思ったんだ。俺も言葉が足りなかったと思う」 「そういうことじゃなくて……」ともごもご返す僕の手首を、彼が「とにかく来てくれないか」と掴んだその時、 「おい、どうかしたのか」 門から歩いてくるその姿は、テツさんだった。 「大村」 九条さんが怪訝な顔でテツさんを見る。 「今日愛ちゃんは、ふみと俺と約束があるんだよ」 彼は、「そうなのか?」と僕を見る。 「とりあえず、手首を掴むのはやめたらどうだ? ちょっとそれ、暴力的に見えるぞ」 テツさんの指摘に、彼は眉をしかめながらも、「悪かった」と手を離した。 「……それから、ちゃんと身辺整理しないなら、もう彼をこんなふうに迎えに来る資格はないぞ」 九条さんの目が大きく見開く。僕に「話したのか?」と問う、その問いには答えずに、僕は彼を見返す。 「……車で来ないで」 一昨日と同じ、戸惑いの目。なんでこの人、こんなに純粋な目してるんだろう。 「話したいなら、車で来ないで。車とか、隠れ家とか、必要なくならない限り、もう会えないから」 夕食の後、部屋で課題をやろうとしてたら、珍しくタロちゃんからラインが来た。 〈愛、ドライブしようぜ〉 同時に外で、チリンチリン、と音がする。窓から見下ろすと、暗闇の中、うちの門の前に立つ太良と自転車がいた。 「大丈夫? 僕乗せて行けるー?」 背中にしがみつきながら聞くと、 「ヨユー」 と返ってきた。実際こんなに脚力あるんだと感心するくらい、自転車はぐんぐん進んで、見晴らしの良い川沿いの土手道までやってくる。 「俺、ここ走るの好きなんだ」 夜でも温かい日で、星がよく見えて気持ち良かった。 さすがに太良も息が切れてきたので、土手の途中で自転車を止めて、道路と草地の坂になっているところの際に、二人座る。 「今度話すって言ったから……」 そう太良は切り出した。「うん」と僕は返す。 「……中3になってから、クラスの雰囲気変わってきてさ」 僕は「うん」と相槌をうつ。 「元々成績競争キツめの学校だけど……高校はもっとヤバいって聞いてたけど。教師も言うことどんどんキツくなってきて、みんなピリピリしてる」 太良は俯きがちに話しながら、草をふわふわと触っている。引っこ抜いたりしないところがこの子らしいなと思う。 「一人仲良いやつがいるんだけど、そいつ成績があんまり良くなくて、教師にも高等科でやってけないぞって脅されてて、どんどん辛そうになってる」 家庭にしろ学校にしろ、太良の生きる現実は相変わらず厳しいようだ。 「……会ってみたいな、タロちゃんの仲良い子」 僕が言うと、太良は 「すげえボヤボヤしたやつだよ」 と笑う。 「でもそういうやつ、あんまりいないからあの学校」 「そっか」 太良は、「あいつ寮だから、会わせるのは難しいな」と腕組みして考えている。僕は、いつまで太良がこんなふうに自分を頼って話してくれるんだろうなあ、なんて、親のようなことを思う。 「こういう話、家でも学校でも話せる大人いないから……愛んちに通えてた頃はよかったなーって最近よく思う」 かわいいことを言ってくれるので、「僕だってもっとタロちゃんに会いたいよ~」としなだれかかったら、うるさそうに跳ねのけられた。 「高校生になったらさ、カフェとかマックとか一緒に行こうよ」 「今はダメなのか」 「今はダメー」 僕の返事に、太良は「もう俺15歳なのに」と舌打ちする。 15歳、という響きに、僕は別のことを思い出す。初めてのキスと、失恋。あの人が、最初に僕を車に乗せたのが15歳の時だった。今、目の前にいる太良の少年らしい横顔に愕然とする。……こんなに子どもだったんだ。 自転車の後ろに再び乗って帰り道を行きながら、太良には聞こえないくらいの声で、 「そういえばあの人も車だったな……」 と呟く。僕を車に乗せる人は、僕を隠したがっている人。 「……自転車ドライブ、最高だね!」 太良にそう声をかけると、 「俺はもう勘弁!」 と、息切れした声が返ってきた。
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